Ripples

「羽瀬山さーん」

 新生スターレスリニューアルオープン当日。エントランスにいる客もスタッフも、どこか浮き足立った様子で落ち着かない雰囲気が充満していた。がやがやと慌ただしい店内に、一際場違いな、柔らか過ぎる程の声色が羽瀬山の耳に届いた。

「羽瀬山さーん。こっちですよーここですよー」

 確かに声は羽瀬山に届いている。届いてはいるが、それに応じるかどうかは本人次第だ。声の主は人に揉まれながら、おそらくは爪先立ちで背伸びをしつつ、片腕を羽瀬山に向けて緩く振っている。羽瀬山はそれに背を向けると、躊躇いもなく反対方向へと足を進めた。

「しゃ、社長、いいんですか……?あの人、社長を呼んでるみたいですけど……」
「うるせぇ。気のせいだ。放っとけ」
「で、でも……」
「でもじゃねぇ、行くぞ」
「はいはーい。行かないでくださーい」

 躊躇いもなく舌を打った音がうまい具合に雑音の中へと霧散した。
 いつの間にあの人垣を超えてきたのか、声の主は2人の真後ろから声を掛けると、そのまま羽瀬山の前へと回り、スカートを両手で摘み上げてはうやうやしく一礼をして見せた。

「羽瀬山社長。この度はリニューアルオープンおめでとうございます」
「これはこれは、ご丁寧にどうも。お忙しい中どんなご用件でしょうかねぇ」
「それはもちろん、お客さんしに来たんですよー。なんてったって、羽瀬山さんのお店のオープン初日ですから。お金を落としに来てあげたんですよ。羽瀬山さんの、だーいすきなお金。優しいでしょ?」
「有難すぎて涙が出るぜ。なんせお前さんが出て来ると碌なことにならねぇもんで。出来ればお引き取り願いたいもんだな」
「やだなー。順番が逆ですよー。碌なことになっていないところに、私が来るんです」

 口許を隠すようにして上品に微笑む所作は、まるで上流階級の令嬢を彷彿とさせる雰囲気を醸し出してはいたが、羽瀬山はその仕草を受けて、二日酔いの朝の吐き気にも似た感情を抱いていた。それを隠すこともなく表情筋に貼り付けて、これから起こるであろう面倒事の尽きぬ日々に溜息を吐いた。

「私、羽瀬山さんにお願いがあるんですよー」
「悪ぃけど面倒はお断りなんで」
「バクステパスくださーい」
「お断りだって言ってんだろ」
「私と羽瀬山さんの仲じゃないですかー」
「そんな仲になった覚えはねぇよ」

 両手を顔の横で合わせ軽く首を傾げる仕草は、見るものの心を惹き付けるには十分ではあったが、残念ながら羽瀬山にはその効果はなく、羽瀬山は持ち前の無骨な手の甲でまるで虫でも払い除けるように手を振った。
 少女――と呼ぶにはおそらく実年齢はもっと上ではあろうが、彼女の持つ雰囲気や声、そして見た目は、不思議とこう呼ぶのが適切だと感じさせた――は、羽瀬山の態度に大袈裟とも感じ取れる程肩を落とし、片手で頬を支えながら溜息を零した。伏せ目気味の目線に憂いを帯びた吐息も相まって、額縁を嵌め込めばそのまま一枚の絵が完成しそうなその様子を、羽瀬山はただただ苦虫を噛み潰したような顔で眺めているだけだった。

「はぁ……仕方ありませんね。私、羽瀬山さんとはお友達同士たと思ってたんですけど、私の片想いだったんですね……寂しいので、私の心の中にしまってある大事な大事な羽瀬山さんの”おもいで”は、私と仲良くしてくれているお友達にお渡しして、私は一切を忘れることにします……はぁ……かなしい……」
「いや待てやこら」
「なんですか。お友達じゃない羽瀬山さん」
「”おもいで”ってのはよ、なんだ、無理に棄てることねぇんじゃねぇの?」
「いやですよー。だって思い出しちゃうじゃないですかー。私一人がお友達だと思って勘違いしてたこと。恥ずかしいじゃないですかー。この事実を知ってる人にはちょっといなくなってほしいくらいには恥ずかしいです私」

 言いながら少女は両手で顔を覆い、微かに肩を震わせている。どうやら泣き真似のつもりらしい。ぎょっとしている運営を尻目に、羽瀬山は心底面倒くさいという感情を隠す様子もなく、後頭部を乱暴に掻きむしりながら盛大な溜息を吐いた。

「……わかった。わかりましたよ。運営、持ってんだろ、渡してやれ」
「は、はい……!ど、どうぞ……」
「え?いいんですか?」

――いいもなにも、渡さねぇとこっちの身が危なくてしょうがねぇだろうが。

 微かに呟かれたそんな一言が、彼女の耳に入ったかどうかは定かではない。運営から手渡されたバックステージパスを受け取った彼女は、宝物のように胸の前で大切そうに握っていた。

「ありがとうございます、羽瀬山さん。これはお友達のしるしに頂けたって思ってもいいんですよね?」

 心底嬉しそうにパスを首から下げ、全円のスカートを綺麗に翻しながら一度その場でターンをする姿は、さながら花畑の中心で無邪気にはしゃぐ子供のようで妙に現実味のない様子に見える。羽瀬山は彼女の問いかけに即座に否定したい気持ちを寸でのところで我慢をし、無言でおざなりに頷いた。

謹啓 突然お手紙を差し上げる無礼をお許し下さい。以前よりケイ様のご高名は、かねがね方々からお話を耳にし存じ上げております。私は、以前より羽瀬山さんと懇意にさせて頂いております蓮と申します。
 この度はめでたく”スターレス”リニューアルオープンの由、心よりお祝い申し上げます。
 昨今の”スターレス”をめぐる様々な厳しい環境の中、いよいよご開店が実現されましたのは、ひとえに、ケイ様の並々ならぬ執念と、日頃のご努力の賜物であると、心より敬服いたしております。
 さて、僭越ではございますが、先日御店様のバックステージパスを羽瀬山様より頂戴を致しました。とは言え、突然バックステージにお邪魔をするのも忍びなく、つきましては、御店様を仕切っておられるケイ様に一度ご挨拶に伺いたくご連絡を差し上げた次第でございます。
 ご多忙の中、お手数をお掛けいたしますが、是非ともご快諾いただけますと幸甚でございます。
 まずは、書中にてお願い申し上げます。 謹白

 リニューアルオープン翌日。スターレスの店舗から少し距離のある、表通りからも外れた寂れた裏路地に、まるでそこだけが切り貼りされたように小綺麗に構えているアンティーク調の喫茶店がひっそりと佇んでいる。その喫茶店の一番奥の席に腰を降ろしているケイは、一枚の手紙を眺めていた。封筒に消印は押されておらず、恐らく直接店舗のポストへ投函されたものなのだろう。手紙の後付けには”蓮“という名前と、携帯の連絡先が記載されていた。一通り読み終えたのか、ケイの妙にしなやかな指が折り目通りに便箋を折り畳み封筒の中へと戻したところで、まるで見計らったようなタイミングで入り口のドアに付けられた鈴が鈍く鳴り響いた。ケイが音に呼ばれて入り口へと視線を向けると、小柄な女性が店のドアをくぐったところだった。女性は木の床をこつこつと軽快に鳴らしながらケイのテーブルへと近付いてくる。どうやら彼女が手紙の差出人のようだ。

「お待たせして申し訳ありません。私がお手紙を差し上げた蓮でございます。以後お見知り置きの程宜しくお願い致します」

 女性は手紙の文章の通りの妙に堅苦しい日本語で挨拶をした後、スカートの両端を摘み上げて深く深く頭を下げた。

「……そうかしこまらなくてもいい。貴様のそもそもの話し方で話すがいい」
「え、いいんですかー?さすが、キングは話が早くて助かります」

 下げた頭を上げたと同時に、先程とは打って変わったような柔らかい口調と声のトーンがケイへと返ってくる。いつの間に控えていたのか、壮年のウェイターが引いた椅子に蓮は腰を降ろした。

「本日はお時間を作って頂いてありがとうございます。断られちゃったらどうしようかと思いました」

 メニューを見ることもなく、いつものをお願いします、とウェイターへと声をかけてから、腕を組んだままこちらを伺っているケイへと向き直る。

「もう既にパスを手に入れているのだろう。勝手に動き回られるよりは時間を作った方がいくらかマシだっただけだ」
「私が貴方の大切な小鳥を傷付けたりしないかが心配なんですね」
「俺がいる限り彼女が傷つくような事にはならないが、用心するに越したことはない」
「わぁーすごい自信ー。というか、彼女を傷つけるつもりはないですよー私。なんなら女性という立場から出来ることもあると思いますよ?」
「貴様が彼女を守るとでも言うつもりか」
「いいえ。私、できない約束はしない主義なんです。私が守れるのは私だけなので。ただ、出来ることはしますし、危害は加えません。これはお約束します」

 暫しの沈黙が流れた。一呼吸してから、フロアの端から踵が木を打つ音が聞こえてくる。ウェイターが二人の座るテーブルへと近付き、無言で蓮の前へとソーサーに乗せられたティーカップを置いた。ありがとう、と蓮が小さく微笑むと、ウェイターも小さく一礼を返し今度は音もなく去っていった。蓮の細い指がソーサーを持ち上げ、そのままカップを手に取り口をつける。温かいロイヤルミルクティーが蓮の喉を通り抜けていった。

「スターレスのキャストは、貴様の好みそうな情報など持ち合わせてはいない。それは貴様もわかっている筈だ」

 ケイの前に置かれている銅製のマグカップの中の氷が崩れ、涼しげな音が辺りに余韻を響かせた。

「そんなのはいいんですよー。ただちょっと面白そうな”ショー”が始まりそうなので、舞台袖で見学させて頂きたいだけなんです。お行儀良くしてますから、安心してください」
「小汚い野次馬根性だな」
「ええ。貴方の手の中にあるカードには、それだけの価値がありますから」
「キャストに余計なことを喋るな。それが条件だ」
「承知致しました。大丈夫ですよ。その辺りはきちんと弁えてます、私」
「……どうだかな」

 ケイの喉を流れていくアイスコーヒーは、蓮のロイヤルミルクティーとは対照的に、酷く冷たく感じられた。