――あなたの前世は、自由を愛し、自由に愛され、勝手気儘に己が道を歩み、他者に左右されることはなく、時にその他者さえも味方につけ謳歌する、そんな自由奔放な野良猫です。
これは昨夜、インターネットで前世占いを行った際の結果の一文です。この占いによると、私の前世は野良猫だそうです。そうであったならさぞ安寧な――野良猫には怒られるやも知れませんが――前世だったことでしょう。私は毎朝定刻にテレビ放送される血液型占いも、雑誌の後方に安定して掲載されている星座占いも、良い内容であれば喜び、悪い内容ならば避ける努力をする程度には、それなりに、信じていたのだと思います。しかしこれは、この前世占いはいただけません。何故なら私は、前世を覚えているからです。これは妄想でも世迷言などでもない、私の心と体が覚えているのです。あの儚くも幸せだった、本丸での時を。しかしながらその前世を、たかだかインターネットの無料診断で解明させようなどと思っている私ではありません。ただただ興味本位で調べてみた結果、毎朝の習慣や、毎月のちょっとした楽しみが一気に無駄に思えてしまい、余計なことはするものではないということを、しみじみ感じ入っていただけなのです。
夏も過ぎ去り、暑さの籠りやすい教室にも涼しい風が入ってきます。しかしながら教壇に立つ彼は、未だに夏を引き摺っているようで、ワイシャツの袖を肘上まで折り上げて、それでもなお暑そうに見えます。ネクタイをきちんと締めているところは、さすが、規律を重んじる彼らしいと思う反面、もう少し気温に沿った服装でもいいのではと、思わざるを得ません。本丸での夏も、ああして頑なにジャージの上下を脱がずにいたことを思い出します。私が、いい加減見いてるこちらの方が暑苦しいから臨機応変に対応するように、と言いくるめ、やっとのことで彼のジャージを脱がすことに成功したのでした。そんな彼が、今生では私の通う学校の教師です。運命とは、本当に不思議なものです。真面目な彼が真面目に授業を執り行っている間、私は昨夜の占いのことを思い出していました。
そもそも私が前世を知ったのは、高校に上がり、彼を初めて目にした時でした。不思議と取り乱したりすることはなく、ただただ、ああ、彼だな、と。そう思ったのを覚えています。彼がその時にどう思ったのかは知りません。何を感じたのかもわかりません。私は前世を知ってはいますが、知っているだけのただの女子高生なのです。幸いなことに、泣いて縋ったり、その場から走って逃げだしたり、そういったドラマティカルな出来事は起こらず、私はただ校則に倣い、スカートを摘み、一礼を捧げました。
「おはようございます、長谷部先生」
「ああ、おはよう」
その時交わした会話は、それだけです。
彼と出会ってからの春や秋、そして夏と冬は、とても目まぐるしく感じられました。中等部時代は終ぞ楽しみを見出せなかった学校行事も、彼があの頃と変わらず、全てにおいて、全身で、懸命に取り組む姿を見れるだけで幸せでしたし、私自身も、その行事活動に真剣に取り組むことができました。三学年に上がった際は、彼がクラス担任に決まり、部屋で一人子供のようにはしゃいでしまった程に喜びました。それと同時に気付きもしました。私はあと一年で卒業です。もう、彼の姿を日々見ることが出来なくなります。
幸いなことに、私の頭はそれなりに悪くなく、むしろ、かなり良い出来に仕上がっておりました。特に苦労することもなく、教員達が勧める大学へと進学することが叶うでしょう。しかしそこに彼はいません。正直に言います。私は、寂しくなりました。これは思春期にありがちな、教師に恋慕する生徒全員が陥る現象なのか、それとも、私が前世というものを持ち合わせているが故なのか、私にはもう、わからなくなっていました。わからなかったので、考えるのをやめました。考えるのをやめて、三学年二学期の中間テスト、彼より出題される数学の答案を、全て、白紙で、提出しました。大学の推薦がどうなるか、他の教員に何を言われるか、クラスの生徒達に何を言われるか、そんなことは微塵も心配してはいませんでした。なにせ、そのときの私は、何も考えていなかったのですから。
私の何も考えていない、文字通りの考えなしの行動が幸いし、私は見事、彼に呼び出されることに成功しました。丁度数学のテストは最終日でしたので、全てのテストが終了しても、まだ昼を回る前の時間でした。学校中の生徒が昇降口へと向かう中、私は一人教室に残っていました。すぐに数学教諭室に向かっても良かったのですが、万が一にも邪魔が入っては困ります。せめて生徒が下校するのを待ちたかったのです。
どれ程の時間そうしていたでしょうか。午後のチャイムが鳴るまで座っていましたから、三十分以上は経過していたと思います。そろそろ彼のところへ行かないと、もしかしたら探させてしまうかもしれません。私は鞄を持ち、少し小走りで数学教諭室へと向かいます。途中で女子トイレが目に入りました。私は少し考えてから女子トイレへと入り、鏡の前で制服のヨレなどを直しました。二つに結んでいた髪を解き、櫛を通し、唇にリップクリームを塗りました。世間では色や匂い付きのリップクリームが流行っていましたが、残念ながら私の学校では校則で禁止されています。静かな校舎内に、私の心臓の音だけが響いているような錯覚に陥っていました。私は、緊張していたのだと思います。この後彼の待つ部屋へ行き、何を話すつもりなのか、この時点で、私自身にもわかってはいませんでした。意味もなく念入りに手を洗い、遂に数学教諭室へと向かいました。
「長谷部先生。獅童です」
二度程ノックをしてから名乗りました。
「ああ、開いている。入っていいぞ」
「失礼します」
両手でドアを開け、両手で閉めました。デスク前の回転椅子へと腰を降ろしている彼に向かい、その場でスカートの裾を摘み、一礼。クラス、出席番号、名前の順で申し上げてから顔を上げると、部屋の中には彼のデスク、書類棚、ソファにガラステーブルと、ちょっとした応接室と言われても異論のない部屋が広がっていました。彼はというと、私の名乗りを受けて、ああ、とだけ言葉を発したきり、デスクに片肘をついて額を抑えていました。どうやら随分と悩ませてしまっているようです。
「とりあえず、なんだ、そこへ座ってくれ」
「はい」
言われた通りソファへと腰を降ろします。私のスカートは校則通りの長さなので、向かいに彼が座っても中身が見えてしまうことはありません。彼はデスクで一つ息を吐いてから、意を決したように席を立ち、私の向かいのソファへと腰を降ろしました。
「獅童。今日のテスト、どうした?」
「どうした、というのは、どういう意味でしょうか」
なにせ私は、何も考えずの行動でしたので、こう返す他にありません。
「白紙なんて、只事ではないだろう」
「確かに、言われてみればそうですね」
「……一体どうした」
彼が何度目かの溜息を漏らしている間、私は全く関係のないことを考えていました。夏の間、職員室を始めとするエアコンが設置されている部屋では、強すぎる冷房で少し肌寒いくらいの温度になっていることが常でした。生徒達は何かと理由をつけて、エアコンが常時稼働している部屋に入り浸ろうとしたものです。夏が過ぎた今でも、今日のような暑さを感じる日には、職員室や音楽室ではエアコンは大活躍のはずです。しかしながらこの数学教諭室では、エアコンが設置されていながら、どうやらそのスイッチは切られたままのようです。私には丁度良い温度ではありますが、彼はやはり、袖を捲った上でなお暑そうに見えます。どうしてエアコンをつけないのでしょうか。
「長谷部先生」
「なんだ」
「エアコン、お嫌いなんですか?」
「エアコン?……ああ、付けていないからか」
「はい」
「暑いのか?」
「いえ、私には丁度良いです」
「そうか」
「でも先生は暑そうですよ」
「まあな」
「どうしてつけないんですか?」
「大した理由じゃない。お前たちがエアコンのない教室で耐えているのに、俺だけが涼しい思いをするわけにはいかないだろう。それだけだ」
ああ、この人は。何も変わっていない。あの頃の彼と、同じ心を持った人なんだと、私はこの瞬間に確信したのです。
本当は、少し不安に思っていました。前世だなんだと、全てが私の妄想なのではないかと。ただの思春期の片想いなのではないかと。それならそれでよかったのですが、今この瞬間に、確信を持ちました。この人は、かつて私が、全身全霊をもって、恋をし、愛を知り、愛し抜いた、へし切長谷部なのだと。この身、この心をもって、ひしひしと感じ入ってしまいました。
「それでも先生」
「なんだ。今はそれよりお前のテストのことをだな……」
「ネクタイくらいは、外してもよろしいのでは?他の先生方は外していらっしゃいますよ」
「それはそうだが……。生徒には今月から冬服着用を義務づけしておきながら、生活指導の俺が、ただ暑いからといつまでもクールビズぶるわけにもいかないだろ」
「先生らしいですね」
本当に。彼らしいことです。
実はこの三年間、私が彼と二人で改まって話をするのは、今日この時が初めてのことでした。なにせ私は、幸か不幸か、生活指導に呼び出されることも、成績指導で呼び出されることもなかったからです。生徒が教師に呼び出される以外に、こうして合法的に、二人きりで話をすることは、かなり難しいことでした。考えなしの行動ではありましたが、こうして呼び出されたことは本当に、私にとって、とても幸せなことでありました。彼が私のことで頭を悩ませている今も、私の頭には、私ではない私の思い出が蘇ってきます。
「長谷部先生」
「なんだ」
「見ているこちらの方が暑苦しく感じてしまいます。多少臨機応変にされてもよろしいのではないですか?」
あの時もこうして、彼のジャージのジッパーを降ろしました。この時こうして、彼のネクタイに手を掛けたように。
品行方正な生徒が話の途中で急に立ち上がり、まさかガラステーブルへと片膝を降ろし、あまつさえ教師のネクタイに手を掛けようなどと、一体誰が予想したでしょう。誰も予想しませんでした。私も、もちろん、彼も。しかしながらもう後には引けません。過去などもうどうでも良いのです。いえ、本当はどうでも良くはありません。大切な思い出です。ですが、前世は、思い出そうと思って思い出せるものではないのです。解いたネクタイを握り締めながら、私もそう考えておりました。
「獅童……お前な……」
「ごめんなさい、先生。私……」
「ああ、いい……何も言うな。とりあえず、机から降りろ」
「……はい」
私は言われた通りテーブルを降り、元のソファへと戻りました。手の中のネクタイを折りたたみながら、彼の言葉が頭の中で蘇っては消えていきます。さすがにと言うべきか、私は羞恥に打ちひしがれていました。いくら前世の記憶があろうとも、私の精神は、どこまでいっても、未だ未熟な女子高生のものなのでした。先程までの勢いを懐かしんでいる間に、彼はソファから立ち上がり、部屋のドアへと歩いていきました。そして恐らくは、鍵を掛けたのだと思います。
「全く、貴方という人は……いつも突然に事を起こす」
初めて聞く声でした。同時に、何度も聞いた声のような気もしました。そして私はすぐに、今生の私にはかけられたことのない声色なのだということに気付きました。とても優しく、あたたかい、声でした。自然と私の目から涙が溢れてきましたが、理由はわかりません。嬉しかったのか、悲しかったのか、驚いたのか、その理由は、今でもわからないのです。止めようと思っても一向に止まる気配がありません。咄嗟に手の中にあるネクタイで拭いそうになりましたが、仄かに香る彼の匂いに、私の涙はまた、止めどなく溢れるのでした。
「ああ、もう……泣かないでください。ほら、こちらを向いて……」
「長谷部……っ先生……」
「……長谷部と。長谷部と呼んでください、我が主」
「長谷部……っ」
この後のことは、恥ずかしながら一部覚えてはいないのです。とにかく彼に抱き着いて、年甲斐もなく声を上げて泣いてしまったことは覚えています。彼は私を優しく抱きしめて、ずっと背中をさすってくれていました。
「ごめんなさい、急に、泣き出したりして……その……」
「いいえ。ずっと言えずにいた俺にも責任はありますから」
「長谷部は、いつから気付いていたんですか?」
「俺は……いいじゃないですか、昔のことは」
「どうして?知りたい。今、すぐに」
「また貴方はそうやって……今は主ではありませんから、俺にも黙秘権というものが……」
「先生、お願いします、教えてください」
「……っ、本当に、狡い人だ……」
ソファの上で彼の膝上に跨っている状態の私が言えることではありませんでしたが、こういう時の彼の扱い易さは変わっていないようで安心しました。しかしながら本当に疑問です。一体いつから気付いていたのでしょうか。私と同じタイミングかとも思いましたが、なんとなく、彼は私よりも早いタイミングで気付いていたように感じます。彼の指が私の髪を梳く感覚を気持ち良く感じつつ、私は彼の頬を両手で包み込みました。目を見て話すときは、この方法が一番確実なのです。
「教えてください」
「……貴方が、初等部の頃です」
「そんなに前ですか?」
「俺は隣の男子校の高等部でした。春のレクリエーションの際、こちらの女子校と交流する機会があることはご存知のことと思います」
「その時に?」
「はい。貴方を、見つけました」
正直驚きました。私には残念ながら、その時に彼に出会った記憶はありません。恐らく気付くことが出来なかったのでしょう。心底残念でなりません。それから彼は、私がこのまま附属の大学まで進学すると見込んで、教員になることを目指したそうです。それが、私のことを一番近くで見守ることが出来ると踏んで。脱帽としか言えません。
「貴方と……こうしてまた話せる日が来るとは、思っておりませんでした。夢でのみ、許されると」
「夢に、見たんですか」
「はい。何度も、何度も。何度も、見ました」
「今は、夢じゃないですよ」
「はい。……あの、名前を、呼んでも?」
「ふふ……もちろんです」
「蓮……ずっと、こうして触れたかった……」
彼の大きな手が私の頭を支え、そのまま、彼の端正な顔が近付いてきます。当然、というべきでしょうか、私はこの今生で、この唇を誰かに委ねたことはありません。この時が、初めてです。他人の唇がこんなにも温かいものだとは知りませんでした。私が無意識に握ってしまっている彼のシャツが皺になってしまうことにも気を向けられない程に、私は彼からの甘いくちづけに夢中になっていました。時間を忘れる程に、それこそ、彼の舌の厚さを覚えてしまいそうなくらい触れ合った頃でした。ふと彼が思い出したように唇を離しました。
「ああ……忘れていました」
「……どうしました?」
「貴方をここへ呼んだ本来の目的です」
「あら」
「あら、ではありませんよ全く……まぁ、貴方はこの三年間、成績優秀、品行方正で通っていますから、補習で済むと思いますよ」
「私、補習を受けるのは初めてです」
「……浮かれるようなことではありませんからね」
初めて耳にする響きに、若干のときめきを覚えたことを見透かされてしまったようです。「困った人だ」と言いながら綻ばせた彼の目元や口元が妙に愛おしくて、死んでもいいと思える瞬間とはこういう些細な時にこそ訪れるのだということを、私はこの時知ったのです。
彼の言葉通りに、私はこうして放課後に補習を受ける次第となりました。補習を必要とする生徒は私一人でしたので、広い教室に彼と私の二人きりです。生徒が私ただ一人だろうとも、手を抜かずにいつも通りの授業を執り行う彼の姿を誇らしく思います。涼しい風が入ってはきてはいるものの、教室内は季節に沿わず暑さを感じさせる気温ではありました。あの頃はジャージを脱がせることに成功した私でしたが、今生では彼にネクタイを解かせることは出来なかったようです。今日も彼の首にはネクタイがあり、捲られた袖口からは逞しい腕を覗かせています。私たちには前世がありますが、今を生きる私たちが必ずしもそれに沿う必要はないのだと、そう言われているようでした。彼の言うように、私はもう彼の主ではなく、彼はもう私の刀ではないのです。今の私は思春期を謳歌する一人の女子高生で、彼は私の担任で、そして私の、唯一無二なのです。
「こら」
生まれて初めて教科書で頭を叩かれました。どうやら随分と長い間思い出を遡っていたようです。声のする方へと視線を向けると、彼が困ったように、ではなく、どこか楽しげに微笑みながら立っていました。
「全く。誰のための授業だと思っているんだ」
「ごめんなさい、先生。でも、白紙で提出したからって、問題がわからなかったわけじゃなかったのは先生もご存知でしょう?」
「それはそうだが、そもそもお前がこの大事な時期にあんなことをするからだろう……」
「あの時はこうする他にないと思いましたから、後悔はしてませんし、結果オーライというものでは?」
「やれやれ……お前の自由奔放さはいつまでも変わらないな。まるで気儘な猫か何かだ」
これには私も目を丸くせざるを得ません。どうやら私は無料インターネット診断を甘く見ていたようです。急に面白くなってしまい、堪えきれずに小さく声を漏らしてしまいました。
「なんだ急に笑って。俺が何か変なことを言ったのか?」
「いいえ。毎朝の習慣を変えなくても良さそうだと思ったら、少し嬉しくなってしまって」
「一体何の話だ……」
「秘密です」
私は恐らく、明日の朝も、その次の朝も、同じ時刻に血液型占いを見てしまうのだと思います。そしてこの占いを、近い将来彼の部屋で見る習慣になるのですが、それはまた今度、お時間がある時にでも。