剣を得る

 この日男が舟を出したことにこれといった理由はなかった。
 日用品の買い足しの為といえばそれもあり、道すがらに強者と闘えればそれもよし、いずれにせよ暇を潰す程度にはなるだろう。
 つまるところこの男は、手持ち無沙汰を極めていた。
 男があてなしに舟を進めていると、遥か前方に一隻の帆船が揺蕩っているのが見えた。随分と大きな帆船のようだが、靡く旗に覚えはない。
 このまま方向を変えなければ男の乗る小舟の進行に差し障ろうが、男は方向転換の素振りも見せずにそのまま帆船へと船を直進させ、おもむろに背中の黒刀へと手を伸ばす。
 ——が、男が刀を抜くよりも速く、空から女が降ってきた。
 女は船の甲板へと着地すると一度辺りを見回してから何かを告げているようだった。女の言葉が終わるよりも早くに海賊たちの怒号や銃声が響き渡ったせいで、女が口にした言葉はおそらく船上の誰の耳にも届いていない。遠目で見る限りでも、女は随分と残念そうに見えた。
 瞬く間に戦場と化した甲板が元の静けさを取り戻すのに然程時間はかからなかった。
 男は気配なく舟を寄せ、たった今船上に見えた剣閃の煌めきを、瞼を閉じることもなく思い返していた。
 あらゆる強者、あらゆる戦場を目にしてきたが、あの甲板に咲いた美しい華のような爆発や煌びやかな太刀筋は見たことがない。
 世界最強に座するこの男は、常に強者の出現を心待ちにしていた。手配書は勿論のこと、公には出回っていない強者と噂される者たちの情報くらいは多少頭に入っている。
 その男の耳にも入っていないということは、この女がただの弱き者か、あるいは——未だ誰の目にも触れられていない強き者か。
 男はいつぶりかに高揚している自らの感情に気付きながらその帆船へと降り立った。
 
 女は船主の先端で風を受けていた。
 細い足場にヒールの踵を乗せて、色素の薄い髪が風に靡いている。遠目では気が付かなかったが、髪の間から垣間見えているのは獣の耳だろうか。猫の耳によく似ている。コートのプリーツから覗かせている尻尾が空を向いていた。
 不思議な風貌をしたその女は男に背を向けてはいるが、その身に一切の隙はなかった。
 気付かれてはいない。しかし、今男が刀を抜いたなら、女は男の刀が抜け切る前に腰の細剣を抜くだろう。

「そこで何をしている」

 男は少し考えてから女に声をかけた。
 振り向いたその女は宝石のような艶のある赤い瞳を、真っ直ぐに男へと向けた。
「風にあたってた」
「この船はお前の船か」
「いいえ。事故があって、たまたまこの船に」
「そうか」
 しばし——互いに視線を外すこともなく、ただ風のみが二人を包んでいた。お互いの手はそれぞれの剣に添えられている。
 甲板にはこの船の持ち主たちが重なって横たわっていたが、彼らはなにも死んではいなかった。殆どの船員が気を失っている中でただ一人、この最悪な状況の中で目を覚ましてしまった哀れな男が、ちょうど甲板の端で声を上げた。

「……いてぇ……一体、何が……」

 寝ていた船員が体を上げた瞬間、二人は同時に剣を抜いた。
 男の抜いた巨大な黒刀に比べ、女の抜いた細い剣は見るものが見なければおもちゃを向けているように見えるだろう。
 ——キィン。
 二人の刃が交わった瞬間の音が一度響くと、周囲は一切の音がなくなったように静まった。ほんの一瞬のことではあったが、船の端でそれを目にした男にとっては刹那よりも長い時間に感じた。そしてその耳に音が戻った頃には、男は再びその意識から手を離していた。
「ほう、覇気を使うか」
「覇気……?」
「知らずに使っているのか。……女、生まれはどこだ」
「生まれはわからない。気付いたら世界を旅していて、ここに来る前は……アーテリス。そういう名前の星にいた」
「……星?」
 互いに剣と言葉を交わしながら、女——レンの中には言いようのない高揚感が生まれていた。
 体格の差や刀の優劣ではない。
 ——この男は、強い。
 レンは男の剣をその細い剣で受けながら、自らの目が見開き口角が上がるのを抑えきれない。
 男の剣を出来る限りに避けながら、なんとか詠唱の時間を稼ぐ。そうして放った魔法でさえ男の剣尖に斬られてしまう。
 この世界でも魔法が使えてよかった。
 それはこの船に降り立った時に感じたことだが、どうにもエーテルの消耗が激しい。
 このまま男の剣を防ぎながら効果のない攻撃ばかりをしていては、いずれエーテル切れで死を迎えることになるだろう。
 数百の刃の交わりの後に二人の距離が離れ、互いに互いの姿を真っ直ぐに見据える。目の前で黒刀を掲げる男の鷹のような目を凝眸め、レンは一度ゆっくりと息を吐いた。
 そして今練れる魔力を剣に込めたところで男の口許が不敵に歪んだ。
「来い」
 瞬間——レンは男へ向かって地を蹴った。
 不動のまま先程と同様に黒刀を構える男に向けて、魔力の唸る刀身を一度、二度、三度——高速の魔剣三連撃、それらすべてが防がれてもレンは止まらなかった。三度目の刃が受け止められた瞬間に膨張させた魔力を至近距離で爆発させ、その爆発エネルギーを次なる魔力の精製に充てる。
 一度目の爆発では、黒刀に相殺されて男の洒落た帽子一つ飛ばすこともできなかった。
 魔力というのは練れば練るだけ威力が上がり、体内から エネルギー (エーテル) が消費される。もとの星ではほんの僅かな時間でもエネルギーの充填が可能だったが、ここではそうはいかないらしい。
 一度目の爆発エネルギーを糧にした二度目の無属性魔法を爆風に乗って体勢を整えながら男へと放つ。先ほどよりも強大なエネルギーの爆風により船の柱が横凪に倒れ、ぼろぼろに崩れた船の木屑が竜巻に飲まれていく。
 レンはその砂埃の向こうに、獲物を狙う鷹の目を見た。
 ——来る。
 この男に一太刀でも浴びせられるとしたら、この刹那しかないと思った。
 瓦礫や木屑が渦巻く竜巻から、およそ視界になど捉えられない速さで男が真っ直ぐにレンへと向かっている。
 ——見えないが、感じる。彼はこれから、私を斬る。
 避ければ恐らくは生きられるだろう。レンの頭にその選択肢があったなら。
 レンは向かってくる男の方へと剣の切先を向け、残る魔力全てを剣に注ぎ込んだ。
 幾つもの魔法陣が瞬時に剣を纏いレンがその剣の柄を強く握った瞬間、眼前の竜巻の中から男が黒刀を振りかぶりながらレンの間合いへと飛び込んでくる。
 男の黒刀がレンの首に触れるか触れないかのほんの僅かな時間の隙間、レンは触れそうなほど近い男の顔目掛けて一直線に魔力を解き放った。
「悪くない」
「よく言うよ」
 レンの剣から放たれた魔力は一直線に男の顔面へと向かったが、それは男に直撃するよりも早く僅かに逸れた。直前に男が振り下ろした剣尖の圧がレンの剣筋をわずかにずらしてかわした——ように見えた。
 なんて疾く、細やかな斬撃。
 レンの放った魔法の螺旋は男の頬を僅かに傷付けて尚止まらず、船の遥か先にある岩礁を粉々に吹き飛ばし、男の洒落た帽子が空高く舞い上がった。

 ——ヴゥン。

 いつの間にか船の端へと追い詰められ、首筋へと突き付けられている黒刀が鳴っている。
 恐らくこの剣は、男がその気になれば触れるまでもなくすべてを斬ることができるだろう。
 男の剣をただひたすらに受けながら、ただがむしゃらに剣と魔法を奮った。致命傷こそ負っていないものの、男の刀身から放たれる無数の剣撃を全て受け止められていたわけではない。
 レンの体と服はぼろぼろの有様だった。
 魔力ももうない。治癒魔法一つを振り絞ったところで欠けた爪が治る程度にしかならないだろう。
 レンは細剣を船へと突き刺すことで今にも崩れ落ちそうな体を支え、膝が折れそうになりながらそれでもまだ——立っていた。
 首筋の皮一枚のみを傷付けた黒刀の刃に、レンの赤い血が伝う。
「死を眼前にして何を思う」
 舟板に突き刺した細剣の柄を両手で握り締め、レンは荒い呼吸を繰り返しながら顔を上げる。首が動いたことで刀が皮膚を裂くのがわかったが、そんなことはどうでもよかった。
 顔を上げた先には、鷹の目の鋭い視線が真っ直ぐにレンへと向けられていた。
「あなたの先にある、世界を」
 レンは笑ってそう返し、首に添えられている黒い刀身を迷いなく握った。
 首から滴るものとは比較にならない量の血液が、手首を伝い船の木目へと赤黒く染みていく。
「数多の星を超えて、ここに来た。私はまだ……何も見ていない。景色も、食べ物も、人も、歴史も」
 ゆっくりと、レンの手が黒刀を押し返す。
 剣に込める男の力が弱まったわけではない。
 男はただじっと、レンの赤い瞳をその鷹のような瞳に映していた。
「この世界に、お前の求めるものがあるのか」
「わからない。これから見に行くところだから」
 どれほどの時間が流れたのか——風の音すら聞こえない刹那、二人はただ無言でそうしていた。
 また一雫、船が赤黒く染みた。
「手を放せ。腕ごと切り落とされたくなければな」
 静かに告げられたその言葉に、レンは疑うこともなく黒い刃から手放した。圧力から解放された掌から、ぼたぼたととめどない血が流れる。
 白い靄がかかったように、レンの視界が狭まっていく。
 剣の柄を握っていた左手も、血塗れの右手とともにだらりと力なく離れ、レンはそのまま前方へとゆっくり倒れていった。
 もうレンの体には、自身の体重を支える力は残っていない。
 目の前の男の顔も、朧げにしか捉えることができない。
 このまま倒れたら、もう二度と目覚めることはないのかもしれない。
 体が傾いていくのを自覚しながらにそんなことを考えていたが、いつまで経っても体が床に打ち付けられる衝撃はやってこない。
 朦朧としながら重い瞼を上げると、いつの間にかに黒刀をその背に収めた男の腕に受け止められていた。
 男は自分の体よりも随分と小さいレンの体を無言で支えながら、服越しでも伝わる程に使い込まれた肉体に無言で目を閉じた。
 ——この小さき体をよくぞここまで磨き上げたものだ。
 男の脳裏に浮かんだ言葉は音にされることもなく、レンは先程よりは落ち着いた呼吸で男に体を委ねている。
「ねえ、お願いがある」
 もう僅かにも動かすことができない四肢と尾はだらりと力なく降ろされ、男の胸に額を預けたままにレンは唐突に口を開いた。
「言ってみろ」
「私に、剣を教えて」
「名も知らぬおれに剣を乞うか」
「うん」
「なぜだ」
「私は今日、この星に来たの。それであなたに会って……こんなにぼろ負けしてさ」
 レンのか細くも凛とした声が男の耳の奥に沈む。
「こんなに弱いんじゃ、この世界のおいしいものも、何も食べれずに死んじゃうと思う。だから……この世界でも通用するくらい、強くなりたい」
「は……っ、美味い飯を食うために剣を教えろと言うか……お前は、なんなんだ、美味い飯……っふ」
 男の声と肩は震えていた。どうやら笑っているようだ。
 その僅かな振動でさえ今のレンの体を軋ませるのには十分だったが、レンはそんなことを気にする様子もなく動かない体のままで声を上げる。
「なんでわらうの? どうせなら見せてよ、どんな顔してわらってるの? ねえ」
「黙れ猫娘」
「うわ——っ」
 体がふわりと浮き上がる感覚。
 気付いたときにはレンの視界は上下逆さまになっていた。視界一杯にあるのは男の広い背中。定期的な感覚で揺れる体。
 レンは歩く男の肩に担がれていた。
 刀の装飾が食い込んで痛い。
 逆さまの視界の中で男がレンの細剣を拾っているのが見えた。
「お前、泳げるのか」
「泳げるよ」
 男はそうかと一言返し、再び黙って足を進めた。
 二人が散々戦ったせいでがらくたと化した船の下には小さな黒い小舟が一隻波に揺蕩っており、男は甲板からその小舟へと静かに飛び降りた。
「お前が使っていた術」
 椅子がただ一つだけ載せられた小舟の端にレンを寝かせて男は言う。
「魔法のこと?」
「そうだ。お前がその魔法を棄てられるのなら、おれがお前に剣を教えよう」
「わかった」
「迷いがないな。棄てることの意味を理解しているのか」
 音もなく小舟が動く。
 見上げた先にある空の高さはどの星でも変わらないようで少し安心できた。
 雲の流れを意味もなく目で追いながら、椅子から見下ろす男の声に耳を澄ませる。
「今ある力を棄てるというのは簡単ではないぞ」
 体の中を微弱な魔力が奔っている。どくどくと血液に絡みつくように体内を巡るのがわかる。
「私は魔法使い——魔導士だけど、魔法は万能じゃない。発動するのにはちゃんとした原理がある」
 少しずつ回復している魔力を回復に充てることも可能だとは思う。
「その原理がこの世界でも同じかどうか——多分私の知識では解明できない。さっきはなんとか使えたけど、いつも通りとは全然言えない。いつ使えなくなるかどうかもわからない。だから、この世界で生きていくための新しい力が必要なんだ」
 魔法を失くしても生きてはいける。
 けれど、この世界を旅するためには力が要る。
「そのために魔法を棄てたとしても、今までのぜんぶが無駄になるわけじゃない」
 だから、いい。
 そう言ってレンは鷹の目を見上げ、心底楽しそうに笑って見せた。
「お前、名をなんという」
「シドウ・レン」
「我が名はジュラキュール・ミホーク」
「ジュラ、キュール……」
「ミホークでいい。鷹の目と呼ぶ者もいるが」
「ミホーク」
「レン、お前が棄てたものに見合う剣を教えよう」
 ミホークの背から抜かれた黒刀に陽の光が反射して、少し目が眩んだ。