心音

 宇宙を渡って海に降り立った矢先に出会った男——剣豪ミホーク。その弟子になって数ヶ月、レンは修行と名付けられた厄介ごとを日々ひたすらに片付けていた。

 ——ミホークに戦いを挑む数多の海賊たちを相手取り連日連夜戦いに明け暮れ。
 ——かと思えば何の説明もなく放り出された 凪の帯 (カームベルト) で海王類を必死で狩り続け。
 ——食材になるかと思いその海王類の肉を命からがら持ち帰ると食事を作れと言われ。
 ——ミホークの機嫌がいい夜は一緒に酒を酌み交わすこともあった。

 最初はとんでもない男に師事してしまったと思ったが、結果的にこの海のことをよく知ることができた。
 海賊や海軍、世界政府に世界貴族。学んだことは多くあるが、中でも覇気について知れたことはレンにとって大きな意味があった。エーテルの流れを感じ取るのに似ていて、魔力を錬るのにも近い。魔法を封じた当初はもう魔力をどうこうすることもないのかと思ったが、レンの体の構造上——どうやらこの世界の人間とは少し造りが違うらしい——覇気と呼ばれる力を使うためには魔力を駆使するしかないようだった。魔力を使わないように弁を閉じると覇気を纏うことができない。覇気を纏おうとすると弁が開く。
 方法は色々と試したが、レンの体の中を流れるエーテルを放出することがこの世界で覇気を使う最低条件だった。ミホークに相談すると、覇気を使うためのエネルギー源として魔力を使用するのは了承してもらえた。
 こうしてミホークから課される日々の無理難題修行のお陰でレンは短期間でこの世界のことをよく知ることができた。
 出会った日に初めて乗せられたこの舟の小ささには驚いたが、今ではこれで十分だと思えるのだから不思議だ——レンは地平線に沈む夕陽を見ながらにそう思った。
「でもやっぱり簡素すぎない? 椅子だけって」
「事足りるのだから問題ない。文句があるのなら泳いで帰れ」
「さすがに無理だよ」
 小さな舟の中央にしつらえられた仰々しい椅子に腰掛けるミホークの足元に申し訳程度に設置された背凭れすらない小さな木製の椅子。それがレンのこの舟上での 居場所 (ポジション) だった。
「ねぇ」
「なんだ」
「麦わらの子、生きてるかな」
「さあな」
 数日前——。
 そうそう応じることのない政府からの招集にミホークが珍しく腰を上げた。
 強制招集だと言ってはいたが、この男が強制などという言葉で強制されるのなら海軍もいくらか楽だろう。ミホークの興味を沸かせる何かがあるのだとレンは直感した。
 駄目で元々のつもりで連れて行ってくれと頼んだら意外にも好きにしろと言われた。道すがら聞いた話によると、ある海賊の処刑に立ち会うのだと言う。
 海賊一人の処刑を海軍本部で——しかも七武海総出でやるの?
 レンのその問いに、ミホークは何も答えなかった。
 到着した先の海軍本部では案の定、勝手に部外者を連れてくるなと海軍元帥に散々怒鳴られたミホークだったが、猫一匹くらいで喚くなと言ってそれっきりだった。
 すみません、舟で待ってます。
 そう言ったレンに対し、意外にも海軍元帥は頭を抱えながら同席を認めてくれた。——振舞われた食事が美味しくて、これだけでも来てよかったと思えた。
 後々わかったことだが、このとき海軍は少しでも多くの戦力を求めていたようで、鷹の目のミホークが連れてきた剣士なら参加させて損はないと踏んだらしい。
 実際レンは頂いた食事以上に働かされて酷く疲れたし、軽率に首を突っ込んでしまったこの戦争は、レンの胸の奥深くに沈む傷を少し開いた。

+++

 暫く振りに帰ってきたクライガナ島は出た時と変わらず澱んだ空気と霧に包まれていた。
 さっさと小舟から降りたミホークに続いて陸に降り立った瞬間、見知らぬ気配と微かに覚えのある気配を感じた。
「ミホーク、人がいる」
「来客とは珍しい」
 遠目からこちらを伺っているヒューマンドリルたちの他に二つの人間の気配を感じるが、片方はどうやら虫の息のようだ。
「行くぞ」
 前を歩くミホークの後ろを歩きながらに感じる、耳の奥に沈むように繰り返される重い呼吸。その呼吸はミホークのものでもレンのものでもない。
 それはレンがまだこの世界に来たばかりの頃——。ミホークの舟に乗ってから間もなく、 東の海 (イーストブルー) で目にしたほんの僅かな戦いの一間。彼はあの時も、今のように消えてしまいそうな呼吸をしていた。あの時の心音は今でもよく憶えている。
 まるで音の発生源が耳元にあるかのように捉えることができるレンの見聞色の覇気は、その男の心音を正確にレンの頭の中へと鮮明に届ける。

 どくん。
 どくん。
 どくん。

 どう考えても瀕死の心音なのに生きることを微塵も諦めていない鼓動。

 どくん。どくん。

 頭の奥に響く鼓動に呼応するようにレンの心臓が胸の奥で脈動を刻む。
「いたぞ」
 心音に向けていた意識をミホークの視線の先に向けると、そこにはレンの記憶通りの男——ロロノア・ゾロがヒューマンドリルの大軍に囲まれ地面に背を付けていた。その近くには荒んだこの土地には場違いな可愛らしい女の子がふわふわと空を飛んでいる。
「てめぇは……鷹の目……ッどうしてここに。——それにそっちの女……猫、か? 何モンだ」
 見た目に反して口の悪い女の子だった。
「鷹の目……」
 絞り出すような声の方を見遣るとぼろぼろのゾロの体がそこにあった。僅かに身動ぐだけでも激痛が奔っているのだろう体に巻かれた包帯からは淡く血が滲んでいる。
「数年前よりここはおれの住処。これは故あって預かっている野良猫だ。剣の腕は今のお前より上だろう、引っ掻かれないようつけることだな」
「ミホーク、先に傷の手当をしないと」
「好きにしろ」
 レンがゾロの元へと駆け、横たわる体に触れようとしたその手は即座にゾロの手によって払われた。
「構うな……おれには、行かなきゃならねぇところがある……」
「きみの行きたいところは麦わらのルフィのところでしょ。そんな傷じゃあ無理だよ」
「お前には関係ねぇ」
「お前がここを出ていくのは勝手だが、麦わらの方はそれどころではないかもしれんぞ」
「なんだと……?」
 ミホークの言葉にレンは神妙な面持ちで視線を落とす。
「——おい、何が起きてる」
 ゾロの静かで重たい声が、澱んだ空気に霧散した。