しんと静まり返る巨城の一室で包帯を切る鋏の刃音が響く。
ベッドサイドに置かれたごみ箱には赤黒く染まった包帯が積み重なって、部屋の中には血の匂いと消毒液の匂いが混ざり合い錯雑とした空気が漂っている。
どこからか這入ってくる隙間風に晒されたゾロの肌に刻まれた生々しい傷の中心にある一際大きく古い刀傷。その傷が刻まれた瞬間の張り詰めた糸が弾かれたような刹那の緊張感と血飛沫を思い返しながら、レンは黙々とベッドに横になっているゾロの新しい傷にガーゼと包帯を充てていく。
「お前もあの戦争にいたのか」
治療を始めてから天井を見上げたままでいたゾロが静かに口を開いてそう言った。
「いたよ。でもほとんどミホークのそばにいたから、ミホークが話した以上のことは知らない」
「そうか」
島に戻ったミホークからマリンフォードの頂上戦争の話を聞いてから、ゾロは文句も言わずにレンの治療を受けていた。
シャボンディ諸島で話題になっていた麦わらの一味の一人がなぜこんなところにいるのかと聞けば、七武海のバーソロミューくまに飛ばされてきたのだと言う。おそらく麦わらの一味全員が散り散りになっているのだろう。——だとしても、ルフィが一体どうやってあのマリンフォードの戦場にまで辿り着けたのかはわからない。この世界の地理や事情に疎いレンですら、あの場所に辿り着くことがどれほど難しいことかくらいはわかる。
部屋に移って暫くはペローナ——ゾロよりも早くにゾロと同じくバーソロミューくまの手でこの島に飛ばされてきたらしい——もその辺を飛び回っていたが途中で飽きたようで、散々文句を言いながら壁をすり抜けて行った。
「ミホークが城にある小舟なら使っていいって」
「そりゃ、ありがてえ」
最後の包帯をきつく結び終えると同時にゾロの上体が起き上がる。
暫くは動かず安静に——レンがそう口にするよりも早くにゾロはさっさとベッドから降りていた。
立て掛けていた刀三本を腰に差した背中は、いつか見たときよりも幾分広く見えた。
「シャボンディに行くの」
「ああ。……手当、助かった」
「気にしないで」
部屋の扉が重厚な音を立てて閉まる間際に見えたゾロの後ろ姿。見間違いでなければ、部屋を出てすぐの——どうやっても視界に入る位置にある——正面扉へと続く大階段とは逆の方向へと進んで行ったのが見えた。
レンは閉じた扉を暫し眺めたままで考えるように口元に手を充て、程なくしてからベッド横につけていた椅子から腰を上げた。こつこつとヒールの音を響かせ、今し方閉じたばかりの扉を細く開く。
「……ったく出口はどこだ……複雑な造りしやがって……」
扉の向こうではもう正面扉前に辿り着いていてもおかしくない筈のゾロが、何故か未だにこの二階廊下を右へ左へと走り回っていた。
ぎい——。
レンは扉を開け放ち、ロロノア・ゾロ——と一言名を呼んだ。
「あ? お前、いつの間にその部屋に入った」
「私はずっとここにいたよ。きみも、さっきまでここで治療を受けてた」
「はぁ? なんだよ、元の場所に戻ってきちまったのか……迷路かこの城は……」
この城は広い。
レンもこの城に来たばかりの頃はよく迷いもしたが、目の前の男のように視界に入るあからさまな道を外したことはなかった。
況してや目的地が見えているというのに——。
刀を奮っている時にはあれほどの胆力を見せたこの男が、城の中で道に迷って己の短髪を掻き乱しているのが途端に可笑しく思えて、レンは目の前で苦い顔をしているゾロにこう言った。
「外まで案内しようか」
「……頼む」
うんと言葉を返し、レンはそのまますぐそこに見えていた階段を降る。
コツコツコツ。
広いホールにレンのヒールの音が響く。
ゾロは自分よりも小さいレンの後ろを着いて歩きながら、レンの髪から覗く猫耳やコートのスリットから天井を向いて揺れている尻尾を眺めていた。
そして徐に口を開き、そういえばと前置きをしてから言葉を続ける。
「お前の名前を聞いてなかった」
「シドウ・レン。私の名前」
「そうか。助かった、レン」
気にしないで。
レンがそう答えるのと、いつの間にかに辿り着いていた正面扉が開かれるのはほぼ同時だった。
「レン、お前こんなとこでなーにやってんだよ」
相変わらずの湿っぽい空気の中、ヒューマンドリルの鳴き声と剣が弾き合う音ばかりで満たされていたレンの耳にそれ以外の音が入ってきたのは久しぶりだった。
かつて栄えた街の残骸と思しき瓦礫がそこかしこに散らばるだだっ広い空間。その瓦礫の一つにレンは腰を下ろし、目の前で繰り広げられている戦いをじっと見つめている。——レンが先程ゾロに渡したミホークの小舟は瓦礫の隅で木片と化していた。
「ロロノア・ゾロが戦ってるのを見てる」
「それ、楽しいのか……?」
「興味がある、かな」
「あんな可愛くもねぇ野郎をなんで」
ペローナはレンが気紛れに作ったベーグルサンドを随分と気に入ったようで、以来こうしてよくレンの周りをふわふわと浮遊している。
「彼が剣を奮ってる姿は、なんでかいつまでも見ていたくなるよ」
「わっかんねぇな。そんなことより、次はいつベーグル焼くんだ。材料はあるんだろ」
「うん、あとでね」
あとでっていつだよとペローナが声を上げるのと、それまで一心不乱に剣を奮っていたゾロが地面に膝を着くのはほぼ同時だった。
レンは瞬時に瓦礫から飛び降り、今にも飛びかかりそうなヒューマンドリルと肩で息をするゾロの間へとブーツの爪先から着地した。——先頭にいたヒューマンドリルが、ひゅっと息を呑む音がゾロの耳を衝いた。
「助太刀なんて、頼んでねぇ……っ」
「頼まれてもやらない」
「手ェ……出すな」
「出してない」
「邪魔だ……っ」
先程手当したばかりのゾロの包帯にはもう血が滲んでいる。このまま戦い続けていればそう時を待つこともなくゾロの体は動かなくなるだろうと、レンは赤い瞳で真っ直ぐにゾロを見下ろしながらにそう思った。
「きみがヒヒたちと戦い続けるのはきみの勝手。それで命を落として仲間の元へ行けなくなったとしても——きみの勝手」
「てめぇ……」
ゾロの鋭い視線と僅かな殺気がレンの肌を刺す。
「それなら、私がきみの手当をしたいと思うのも——私の勝手だね」
荒廃した空気と感情。戦場で得るのとはまた違った肌感にレンは顔には出さないままに言いようのないぞくぞくとしたものを感じていた。細剣の柄に手を掛け装飾に指を滑らせる。
交差する視線から伝わるゾロの抱く不信と緊張と困惑。何が起きているのかわからない状況の中に存在するたった一つの揺るぎない真実。それはきっと、仲間との約束——。
レンは出会って間もないロロノア・ゾロの抱くたった一つのその望みは達成されるべきだと、そう思って疑わなかった。
「おいお前、レンはお前が思ってるよりもかなり自己中だぞ。人の言うことを否定はしねぇがそれで自分を曲げることもしねぇ。いちばんめんどくせぇタイプだ」
黙って浮遊していたペローナが呆れた様子を隠すこともなくそう話す。
ペローナにそう評価される覚えはレンにはなかったが、ゾロはその言葉に何かを感じたようだった。
「そいつァ……たしかに面倒だ」
吐息の混ざったその一言を吐いてから刀を納め、ゾロは力を抜いてその場で大の字に寝そべった。
「手当したら城に戻るよ。それでどうかな」
風に舞う砂埃と一緒に過ぎ去っていった緊張感のあとに残ったゾロのそばへと膝を抱え込むようにしゃがみ込む。ゾロはレンの方は見ないままで、ああと一言返して頷いた。
「ペローナ、救急箱持ってきてくれる」
「なんで私が!」
「城に戻ったらベーグルを焼くつもり」
「え! ココアもちゃんとあるんだろうな!」
「持ってきてくれたらね」
言い終わるよりも随分早く、ペローナは城へ向かって飛んで行った。
ペローナってかわいい。
あっという間に小さくなったペローナから視線を戻してそう言うと、ゾロは星も見えない暗い空を見上げていた。
先程まではすぐそこに群れていたヒューマンドリルたちが遠巻きにこちらの様子を伺っている。
「……お前は、あいつら全員倒したのか」
「そうだね。だからここのヒヒたちは私の近くには寄ってこないけど……ミホークみたいに視界に入っただけで震えられることはないから、そのうち首を取りにくるつもりなのかも」
人間を見ているだけあって、ここの獣たちは野心すら持っている。
ゾロの体に巻かれている血の滲んだ包帯を解くと一瞬呻き声を堪えたような吐息がゾロの口から漏れて、そのままレンの耳の奥へと落ちた雫のように沁みて沈んだ。
「——てこたァ……お前と勝負すんのにも、こいつらを倒さなきゃなんねぇってことか」
月も出ていない暗い空の下でもわかるゾロの眼光が鋭くて、それが今のレンにはやけに心地よかった。
「怪我人とは戦いたくないな。それにきみ——ゾロには、他にやらなきゃならないことがあるんじゃない」
「……おれは一刻も早く船に戻らなきゃならねぇ」
「早くみんなと合流できるといいね」
「……ああ」
遠くの空から戻ってきたペローナを視界の隅に捉えながらゾロの首筋へと指の腹を充てる。どくどくと脈打つゾロの血流が、あの日 東の海 で溢れた血液を思い起こした。
城に戻ってから、レンは無心でベーグルの生地を捏ねていた。
古城のキッチンは広く静かで、調理に必要なものが一通り揃っている。
料理はここに来る以前から好きだった。何を考えずとも腕が勝手に動くのがいい。
あれこれと考えながら新しいレシピを考えるのもレンの趣味の一つだが、今はただ無心でいたかった。
捏ねた生地の形を整える。
パンは捏ねている間にはいくらでも無心でいられるが、生地を休ませる時間が来るとふと現実に引き戻されるような感覚になる。
そうして引き戻された現実のキッチンの入り口には、ラフな装いのミホークが壁に寄りかかって立っていた。
「あの小僧はどうした」
いくら無心で手を動かしていようとも、他人がこの距離まで近付いているのに気が付かないレンではない。見聞色を使っていようがいまいがそれは変わらない。それでも、このミホークという男が気配を消して近付いてくるのをレンはいつまでも察知できずにいる。
その度にレンは思う。——まだ、弱い。
「ヒヒと戦ってる」
蛇口のハンドルを捻り、勢いよく吹き出した水に手を潜らせる。この島の水は冷たすぎるくらいなはずなのに、火照った手がいつまでも冷える気がしなかった。
「お前は手を貸してやるのかと思ったが」
「ヒヒに勝てないようなら、新世界どころかシャボンディまで辿り着くことすら無理——でしょう」
「違いない」
レンが再び蛇口のハンドルを捻るのとミホークがレンの方へと足を向けたのはほぼ同時だった。
自分よりも随分と高い位置から見下ろしてくるミホークを見上げていると首がいたくなる——鋭い鷹の目の視線を受けながら、レンはそんなことを考えていた。
ミホークの指先がもう十分に上がっているレンの顎に添う。
「戦いに飢えた顔をしている」
「……どうかな」
「お前はあれを初めて目にしたときもそんな顔をしていた」
「そうなんだ」
パン生地のような柔らかさの欠片もないミホークの親指の腹がレンの下唇を撫ぜる。不躾な親指の先が唇を割り、ちいさな歯列を抉じ開けた。
レンの下顎から生えている短い犬歯にミホークの親指が触れる。
つぷ——。
添えられた親指の関節に力が込められ、縮こまっていたレンの舌の端に鉄の味のする一雫が落ちた。
レンの犬歯に突き破られたミホークの親指の皮膚からは赤い血液が滲んでいる。口の中にじんわりと広がっていく錆びた味に、レンの赤い瞳が揺れた。
無音の中で、レンの開いた口から漏れた吐息がミホークの指を撫ぜる。
そうして浅く突き刺さった犬歯から離れた親指がその血液をレンの下唇で拭い、もう片方の手に握っていた新聞をレンへと手渡した。
「麦わらの速報だ。おれはもう読んだ、処分しておけ」
「遠回しだね」
「何か言ったか」
「なにも」
立ち去るミホークの後ろ姿が見えなくなってから、レンは手元の新聞へと視線を落とした。新聞には麦わらのルフィがマリンフォードで黙祷を捧げている写真が大きく載っている。
レンは唇に残る血液を舌の裏の粘膜で拭い、もう一度蛇口を捻って手を洗った。
麦わらのルフィの載っている新聞は、ベーグルサンドと一緒にペローナに渡しておいた。