黒い金魚

 少女はベッドに腰を沈めて少し上向きに格子窓の外の月を見上げていた。
 船室の中央を貫いている柱と少女の足首は一本の鎖で繋がっている。部屋の中を自由に動ける程度の長さでありながら部屋の扉には手をかけることのできない長さの鎖。船の規模に見合わない重厚な鉄扉の内側は水回りも完備された少女のための檻だった。
 先程から 部下 (たしぎ が少女の足元に片膝をつき声を掛けているが反応がない。
 部屋の外からこの船の持ち主だった海賊たちの護送準備が完了したとの報告を受け、スモーカーは口から深く白い煙を吐き出した。
 軋む船板を踏み締め部屋を進み、床に垂れている柱と少女を繋ぐ鎖を十手の先で砕く。
 金属の砕け散る鈍い音が船室に響き渡り、少女はぴくりと体を揺らした後でゆっくりと振り向いた。少女の耳からはらりと落ちた長い黒髪と白い肌のコントラストがやけに目についた。
 落ちた鎖を見下ろす少女の首にも無骨な鎖が掛かっているのに気が付いた。
 指先を揺らしてたしぎを脇に退かせ、スモーカーは初めて少女を正面から見下ろした。伸ばしっぱなしの前髪の下に隠れている満月のように大きな金色の瞳が真っ直ぐに見つめ返してくる。
 少女の細い首に掛かっている鎖の先には薄い金属のプレートがぶら下がっていた。
 指先で引っ掛けるようにしてそのプレートを持ち上げ乱雑に刻まれたその文字を口にする。
「レン」
 こてん、と目の前の少女の首が僅かに傾いた。
「お前の名前か」
 こくん、と少女の首が浅く頷く。
「口がきけねぇのか」
 こてん。少女は何も言わずにただ首を傾げた。
 後ろでたしぎの悲壮な声が耳に入る。
 少女は変わらずにスモーカーを感情のない瞳で見つめている。
 草臥れた白いシャツの布越しに少女には似つかわしくない豊満な胸の頂点が浮いている。下は穿いているようだが上はこの薄いシャツ一枚なのだろう。
 何度目かわからない溜息と白煙を吐き棄て、スモーカーは脱いだジャケットを少女——レンの体へと前を隠すようにして羽織らせるとそのまま足早に踵を返す。
「適当に服着せて船に乗せろ」
 いつまでも おろおろ (・・・・) としているたしぎに向けてそう言うと、スモーカーはやけに大きな足音を立ててその 船室 () を後にした。
 立ち去るスモーカーの後ろ姿をじっと見つめ、レンは自身の体を包むあたたかいジャケットを抱きしめるようにして すん (・・) と一度鼻を鳴らす。少しの汗の香りと葉巻きの匂いが一瞬にして体中に染み渡った。

+++

 ——あの(ガキ) が裏切ったんだよ。
 捕縛した海賊はレンのことを口汚く罵った後にそう言った。
 曰く、レンはあらゆる音をよく聴くことができるのだと言う。人や物が発する音は勿論、電伝虫の念波に乗った音も広範囲に拾うことができるらしい。そしてそれと関連してかはわからないが天候を予測することも可能で、 偉大なる航路 (グランドライン) では予測が難しいとされる嵐やサイクロンですら察することができるとその海賊は自分事のようにそう話す。
 どの方角に人がいるのかがわかるのだから、最悪の場合 記録指針 (ログポース) なしに近くの島まで辿り着くことも不可能ではないだろう。
 進路に予期せぬ渦潮やサイクロンの気配を察したら部屋の鐘を二度、周辺で海軍の気配を察知した場合には鐘を三度鳴らす。それがレンの仕事だった。
 渦潮やサイクロンは優秀な航海士であれば予測もできるが、海軍の電伝虫を傍受できる人間はそういるものではない。レンは幼い頃にその体質を 買われ (・・・) 、人生の大半を海賊達の間で行われる強奪や売買の対象となっていた。先程捕らえたこの海賊達も暫く前にブローカーを通して高値で買い取ったらしい。
 ——しかしあれはいい。声を上げないから盛り上がりに欠けるが、体はその辺の娼婦なんかよりよっぽど上物だ。ガキとは思えねぇいい体してるよ。泣きも笑いもしねぇのが気味が悪ぃがな。
 笑いながらそう口にする海賊の頬をたしぎの平手が勢いよく叩きつける。口から血を吐き出しながら尚も男は憤っているたしぎを嘲笑うように唾を吐きつけた。
 反吐が出る思いを煙と一緒に吐き出し、未だに下卑た笑いを漏らしている男に続きを話せと促した。
 ——あいつがお前らに気付かねぇわきゃねぇんだ。あいつは裏切った。お前らがすぐそこまで来ているのに気付いていながら黙ってたんだ。馬鹿なやつだ、どこに行ったっておんなじだってのになぁ。海軍だってどうせあいつを監禁するんだろ? あんなの外に出しておいて大物海賊団なんかに囲われた日にゃああんたらそいつら一生捕まえられなくなるからなぁ。ざまぁねぇ話だ。
 何度目かわからないたしぎの平手の音が静かな船室に響き渡る。
 スモーカー達がこの海賊船を視認した際、船は海軍に全く気付いていなかった。この男の話すレンの体質が偽りでないのなら、レンが海軍の接近を黙認したことは間違いない。
「スモーカー大佐」
 締め切った船室に白い煙が充満し始めた頃、小さなノック音が部屋に響いた。なんだと短く問い質すと控え目に扉が開き、現れた海兵は敬礼をしながら小さな手書きのメモをスモーカーへと手渡した。
「保護した少女がこれを」
「あ?」
 ——南南西、サイクロン、十五分以内。
 受け取ったメモには細いがしっかりとした字でそう書かれていた。
「……操舵に回せ」
「はっ」
 見張っとけ、と中の連中に言い残しスモーカーは部屋を出た。
 先程まで凪が続いていた海とは思えないほどに強い風が吹き始めていた。メモに書かれていた方角へと視線を向けると、上空に厚い雲が渦巻き始めているのが遠目にもわかる。肌を打ち付ける強風に、ジャケットを渡しっぱなしにしていたことを思い出した。