白煙に沈む

 眠りに落ちたレンの体を整え冷静になった頭で最初に考えたことは、面倒なシーツの後始末のことでも部屋の外にいる部下への言い訳でもなく、この小さな女をどうやって自分の手元に置いておくかということだった。
 ——海軍だってどうせあいつを監禁するんだろ?
 あの時の海賊の言葉が耳に蘇るが、不思議と感情は凪いでいた。
 レンの処遇が大将青キジ預かりな以上、監禁などというつまらないことにはならないだろう。恐らくはいずれかの部隊所属にした上で行動が制限される。
 スモーカーはソファーに腰を鎮め、口から吐き出した白煙が霧散していく様をぼうと眺めていた。
 出会ったばかりの少女にこれ程までに心を乱している理由を考えるのはもうやめた。
 何度目かわからない白煙を天井へと吐き出して、スモーカーはテーブルの上の灰皿を掴みレンの眠るベッドまで歩く。軋むベッドへと腰を下ろしサイドテーブルの上に灰皿を置いた。
 ゆっくりと呼吸を繰り返すレンの黒い髪をスモーカーの太い指が梳いていく。掬い上げた毛先に吸い寄せられるように唇を寄せるとレンの瞼がうっすらと開いた。
 何かを探すように揺れたレンの瞳がスモーカーの姿を捉え、その頬を僅かに緩めて微笑んだ。
「しんどいか」
 レンの首が左右に動く。
 そんなわけがなかろうことはスモーカーが一番よくわかっていた。
 後悔はないが、こんなちいさな体にいい歳をして無理をさせた自分には心底呆れる。
 小さく息を漏らしてレンの頬を指先で撫ぜると、レンは横になったままスモーカーの方へと体を向けた。布団の中に埋まったままスモーカーへと擦り寄るレンは、何故だか機嫌が良さそうに見えた。
「……お前、他の海兵とはすんなよ」
 言葉の意味がわかっていなさそうなレンの頬を軽く摘むようにして揺らすと、レンは数度瞬きをした後で唐突に頬を膨らませ、スモーカーの背中をぺしぺしと音を立てて何度も平手で打ちつけた。
 痛みはなかったが、今の言葉で折角良かった機嫌を損ねてしまったらしいことはわかった。
「おいやめろ……わかった、——いやわからねぇが……悪かった」
 背中を叩く手は止まったが、未だレンの頬は膨らんだままだ。
「レン」
 膨らんだ両頬を片手で掴み、飛び出しているレンの唇にそのまま何度か吸い付いた。一度目に触れた時には残っていた不満そうな瞳が数度目になってようやく和らいだ。艶のある黒髪を撫でながら額に唇を寄せる。
 上から見下ろした、ほんの僅かに緩んだレンの目許に満たされた心地になっている自分が可笑しかった。
 そういえばお前——。
 口に銜えた葉巻に火を点けながらそう切り出した。
「海軍が近付いたこと、どうしてあの海賊共に言わなかった」
 ベッドに腰掛けたままのスモーカーの隣で布団をくしゃくしゃにしながら頬杖をついているレンの髪を耳に掛けて問い掛ける。
「わかってたんだろ」
 黒い髪の下から顕れた横顔を見下ろしてそう言うと、レンはスモーカーの視線を一度見返してから口を開いた。
「……ぁ——の、とき」
 レンの掠れた声が静かな室内に響く。
 震えた音が続きを紡ぐより早く、サイドテーブルの引き出しからメモ用紙とペンを取り出しベッドへと放った。
「無理に喋るな。紙でいい」
 レンのちいさな手がペンを握り、ペン先が紙を滑る音だけが部屋に響く。そうして膝上に置かれた紙を拾い上げると、少しふにゃけた文字で短い一文が記されていた。
 ——声が聞こえた。
 スモーカーが小さな紙を見つめながら黙って白煙を吐き出してる間に、次のメモ用紙が膝上へと乗った。
 ——海賊はどこまでいっても海賊だって。
 その文字を見た瞬間、スモーカーの眉がぴくりと動いて停止した。
 ——海賊はみんな、わたしがどこに行こうが変わらないって言ってた。
 ——海賊も海軍も一緒だって。
 ——海軍も私を檻に入れるだけだって。
 ——わたしは海賊船にしか乗ったことなくて、海軍船には乗ったことなかった。
 ——海軍の人にも会ったことなかった。
 寝転がったまま文字を書き続けるレンから手渡される紙を流れるように受け取っていく。
 ——だから、会ってみたかったの。
 ——あの言葉を口にした海軍の人に。
 最後のメモを手渡して、レンはメモの束と握っていたペンをサイドテーブルの上の灰皿の隣へとそっと置いた。
「スモーカー」
 耳に染み込んでいくようなレンの声は先程よりも音らしくなっていた。
 ごそごそと布の擦れる音と共にベッドが軋み、布団から抜け出したレンがスモーカーの膝上へと向かい合わせに乗り上げる。下着だけを身につけたレンの肌に口に銜えた葉巻の火が触れそうになり、スモーカーは咄嗟に首を引いた。
「あのときの声は、あなただった」
 首を後ろへと引いたまま口から白煙を吐き出したところで、レンの指がスモーカーの口から引き抜いた葉巻を灰皿へと押し付けた。
 おい、と声を掛けたスモーカーの両肩へとレンのちいさな手のひらが乗る。
 眼下にあるレンの下着から覗く豊満な乳房の表面に浮き出た朱い痕をスモーカーのざらついた指の腹が撫ぜた。
「……あの通信の声がおれだとよくわかったな」
「人の声、聞き違えたことない」
「そうか」
 スモーカーの無骨な指先はレンの細い首へと昇り、その大きな掌で包むように握る。
「それで——お前はどうしたいんだ」
 指の腹から伝わってくる細い首の左右を流れる頸動脈の振動を感じながら言葉を紡ぐ。
「お前が決めろ」
 そう言って首を握る掌へと力を入れると、レンの唇から浅い吐息が漏れた。
「わたしは——あなたの煙がすき」
 少し掠れたレンの声に耳奥を擽られるような心地になる。
 スモーカーの掌の力が強まっていくのに合わせてレンの瞳に雫が浮かび上がり、今にも零れ落ちそうなそれから目が離せなかった。勝手に乾いていく喉に唾液を流し込む。
 レンのちいさな手が、自らの首を絞めているスモーカーの手の甲を撫ぜる。
「この手のひらも」 
「他を知らねぇだけだろ」
 海賊船()から見える景色しか知らない(レン)の瞳からついに零れ落ちた一雫をスモーカーは舌先で受け止めてそう言った。触れた先から痺れるような錯覚を感じ、今すぐにでもその白い首筋に噛み付きたい衝動を抑えるのに必死だった。
 詰まる喉の奥から浅い息を吐き出すレンの瞳が揺れる。
「知らなくていい」
 喉元を握る掌に手指を添えたままスモーカーを見つめてレンは言う。
「あなたに、会えたから——これ以上はもう、何も知らなくていい」
 自分は今どんな顔をしているのか。
 息も絶え絶えに言葉を紡ぐ目の前の少女の瞳に自分はどう映っているのか。
 震えた吐息を耳にしながらそんなことを考えているとレンの口許が僅かに緩み、その両の手のひらがスモーカーの凝り固まった頬を包み込む。
「わたしは——あなたの温度がいい」
 ぬくい。
 ちいさな手のひらから伝わる温度を頬に受け、スモーカーはようやくレンの細い首から掌を離した。
 深く息を吸う音と共にスモーカーの胸へと凭れ掛かるように倒れるレンの体を抱き締め耳元へと唇を寄せる。
「檻から出たかったんじゃねぇのか」
「檻から見える景色が嫌だった」
「おれの手の中から見える景色がいいもんだとは思えねぇがな」
「あの鎖が落ちた時に見えた景色だけでいい」
 レンの細い腕が背中へと回り、その指先が刻まれたばかりの生々しい引っ掻き傷をなぞる。
 大したことないそのぴりぴりとした痛みが、存外心地好かった。
「わたしをあなたの煙の中に仕舞って」
「そうなったら、もう二度と逃してはやれねぇぞ」
 滑りの良いレンの白い首筋へと舌を這わせ、開いた上下の歯でそこの肉を挟む。少しでも力を入れたら穿ってしまいそうな薄い皮膚へと歯を突き立てて甘く噛むと、レンは微かに熱を孕んだ吐息を漏らして口を開いた。
「いいの」
 これだけが欲しいの。
 小さな声でそれを口にして ぎう (・・) とレンの腕の力が強まった瞬間、スモーカーの上下の歯がレンの白い首筋へと突き刺さった。濡れたようなレンの吐息が耳の奥底まで落ちて、舌に乗ったレンの血液は予想通り甘かった。
「スモーカー」
「なんだ」
 どくどくと流れ零れるレンの血液をざらざらの厚い舌で舐めていると、レンの腹部からぎゅるぎゅるという空気の混ざったような音が鳴ったのに気が付いた。
「お腹空いた」
 ——そういえば食事を摂らせていなかった。
「待ってろ。持ってきてやる」
 レンの赤い血液が舌に乗ったままにレンの唇へと触れてそう言うと、レンは嬉しそうにうんと頷いた。