喉奥に溶けた砂糖菓子

 レン手製のサンドイッチを食べた晩に宣言した通り、すべてのヒヒを倒し終えたゾロはその足でレンの元へと赴いた。
 ——おれと勝負しろ。
 顔を突き合わせるなりぶっきらぼうにそう口にしたゾロに、レンは一言いいよと返して部屋を出た。てっきり怪我を治してからにしろと断られるかと思っていたので少し意外だった。
 ヒヒたちと散々戦い続けた荒地の只中に立つレンは少し異質で、月明かりに照らされた耳や尻尾の毛並みが綺羅輝羅と煌めいて見えた。
 私が勝ったら明日の買い出しに付き合ってね。
 薄暗い夜の空に昇った明るすぎる黄金の満月を背負い、細剣を抜きながらにレンはそう言った。その立ち姿は美しくも妖艶で——伏せた瞳から微かに漂う殺気に体の芯が熱くなった。
 今となってはどれ程の時間剣を交えていたのかもわからない。かち合う刃の音と互いの呼吸だけを耳にしながらただひたすらに斬り合っていた。
 細くて薄い、しかし酷く鋭利な薄氷のようなレンの斬撃。繊細そうに見えるその一閃は三本の刀で受けて尚重かった。
 空に存在() った丸い月がいつの間にかに消え去り、目を眩ませる太陽が足早に昇り始めた頃——ゾロは砂の舞う地面に背を着け、自身の喉元に細剣の切先を突き付けるレンの姿を見上げていた。緋い眼球の中でかっ開いたレンの瞳孔を見た瞬間、背筋をぞくりと熱が駆けていくのを感じた。上から見下ろすレンの胸が呼吸と共に上下に揺れて、薄い唇から漏れる吐息に喉が鳴った。
 買い物は午後にしよ。
 細剣を鞘へと納めたレンは立ち上がりながらそう言った。
 ああ、と言葉を返したゾロはレンの足音を聴きながらその場で大の字になって瞼を下ろし——再び開いた時には空高く昇った太陽と呆れたようなレンの顔が重なって見えた。
 行こう、と言って差し出されたレンの手を取って島を出たのが昼過ぎのこと。
 苛つくくらいにからりと晴れた空の下、ゾロは中身の目一杯詰まった紙袋を片手に抱えて煉瓦造りの街中をレンと共に歩いていた。
 ——はずだった。
「おい次は——」
 いねぇ。
「……ったくどこ行きやがった」
 先程まですぐそこにいたはずのレンの姿が見当たらない。活気のあるマーケットは大勢の買い物客で賑わっていたが、そのどこを探してみてもレンの揺れる尻尾を見つけることができない。
 一つ前に入った店の中でちらりと見えたレンの手にあった買い物リストはまだ半分程しか埋まっていないように見えた。逸れてから少し経つがまだそれほど遠くには行っていないような気がして、ひとまずその辺の店を見て回ることにした。レンと一緒に島を出たのはこれが初めてだったが、レンはゾロを探すことよりも一人で買い物を進めているような気がした。——根拠はない。
 そう思って歩いていたが、いつの間にか随分と奥まった路地に入っていることに気が付いた。大通りを歩いているつもりだったがどうやら違ったらしい。でかい街というのはこういうよくわからない道があるから紛らわしくていけねぇ。
 誰に聞かせるでもない文句を脳内で垂れていると二本の分かれ道に行き当たった。道の真ん中にはえらい大荷物を脇に置いた老婆が小さな木箱に腰を下ろしている。
「おい婆さん、人を探してるんだが」
「なんだい藪から棒に。金ならないよ」
 ゾロを見上げた老婆は隠す気もなさそうに眉間に皺を寄せ、脇の荷物から萎れた煙草を一本取り出して火を点けた。
「だから人を探してんだよ。身長がこんくらいの……あー……耳と尻尾のある猫みてぇな女を見なかったか」
「ああ、あの親切な娘かい。あんたみたいなのと縁があるとは思えないがね」
「あの猫はおれの連れだ。はぐれたから探してる」
「連れぇ? あんたがかい。人攫いかなんかじゃないだろうね」
「違ぇよ。その猫がどっち行ったか教えてくれ」
「あたしゃさっきあの娘に荷物を運んでもらったばかりさね。あの娘になんかあっちゃあ目覚めが悪い」
「だから連れだっつってんだろうが!……ったく……もういい、邪魔したな」
 あの娘に手ェ出すんじゃないよという老婆の腹立たしい声を背に受けながら結局元来た道を辿って——気が付いたらまた見知らぬ景色の中を歩いていた。レンと共に最初に歩いていた大通りに出るはずだったのだが、この周辺は民家が多いのか人通りも少ない。片腕に抱えていた紙袋を担ぎ直しながら歩いてみても人っこ一人見当たらず、いい加減引き返すかと思った矢先にようやく人を見つけた。
「おいあんた、ちょっと聞きてぇんだが」
 こじんまりとした木製の扉へと這入っていく男にゾロは足早に近付いて、先程老婆にしたのと同じ問いをかけた。
「猫の女の子ねぇ……。確かにここには来たが……あんたあの娘になんの用だい。あの娘には身重の妻が世話になったんだ。あんまり物騒なこと企んでいるようなら……」
「企んでねぇよ。はぐれたから探してるだけだ」
「そう言われてもなぁ……」
「おい……おれはそんなに物騒な顔してんのか」
「ひぃ……っ、す、すみません……!」
「……ああ、いやもういい……」
 今にも泣き出しそうな男の顔に溜息を吐き出しさっさとその場を後にした。
 ——どいつもこいつも人をなんだと思ってんだ。
 これまで自分の外面を気にしたことはなかったが、人の行方を尋ねただけでこうも連続で不審者扱いされるとは思わなかった。先に船に戻ろうにも船の場所もわからない。ゾロは無意識に舌を打ち、声の混じった溜息を吐き出しながら乱暴に頭を掻き回した。
 そもそもこんなにも焦って探す必要があるのかどうか。——いや別に焦ってるわけじゃねぇが。
 不毛な自問自答を脳裏で繰り返しながら当てもなく歩いているといつの間にか港に辿り着いていた。レンの小舟は島の端に停めてあるのでここにはないが、たしか買い物リストには魚も入っていたような気がする。
 裏通りよりも人通りの多い港内を魚屋を探しながら練り歩いていると、暗く細い路地の入り口をじっと見つめている子供を見つけた。今にもその胡散臭い路地に入って行きそうな子供の背中へ、ゾロは一言、おいと声を掛けた。
 振り向いた少女はゾロを見上げた途端に大きな瞳いっぱいに涙を溜め、次の瞬間には大声で泣き叫べそうなくらい胸いっぱいに息を吸った。
「おい待て泣くな! なにもしねぇっつの……あー、なんだ……猫……」
「……ねこ、ちゃん……?」
「いや……猫みてぇな、女……見なかったか。耳と尻尾が生えてんだ」
 いつの間にか涙を引っ込ませた少女が瞳を丸くして見上げている。
 一日中歩き回って悉く不審者に間違われたが、今日一番怖がられていない顔だと思った。
「猫のお姉ちゃん? お兄ちゃん、あのお姉ちゃんのお友達なの……?」
「いや……まあ、似たようなもんだ」
 咄嗟に——そして事実友人などという関係ではなかろうと思い否定から入ったが、友人としなければこの情報提供者はまた泣き出してしまいそうな気配がしたので答えを濁すことにした。今はレンの行方を探すのが先決だ。
 それにしてもあの猫はなんだってこうもあちこちうろついているのか。それも行く先々で他人を助けて、それで金を取っている様子もない。慈善事業が趣味という感じでもないように見えたが——。
 城にいるときのレンはどんな感じだったろうか。
 レンが歩くとヒールの音がコツコツと鳴る。ちんたらしているわけでもなく、せっかちな音でもない。
 コツコツ、コツコツ。
 思い返して気付いたことは、ゾロはその音が存外嫌いではなかった。
 料理をしている時の指先はしなやかで柔らかそうで。細剣を抜いた時のレンの瞳の奥は、覗くとこっちの体の奥まで勝手に熱くなるくらいの灼熱が疼いてた。いつもの落ち着いた表情とは違う、熱の籠った——そういえば、レンの笑った顔を見たことがない。普段のなんでもないときの顔と、料理の顔と、剣を抜いたときの顔と——。それだけだ。
「……なぁ、その猫の姉ちゃんがどっち行ったか教えてくんねぇか」
 そう問い掛けた瞬間、目の前の少女はゾロの脚へとしがみ付いて唐突に泣き出した。
「お願い! お姉ちゃんを助けて……!」
「……あ?」
「変なおじさんたちにね、ママからもらった綺麗な石、取られちゃったの……。その石はママが死んじゃう前にくれた大切な石で……それで泣いてたらお姉ちゃんが来て……取り返してくれるって……それで……おじさんたちのところに行っちゃったの」
 行っちまったのか。
「あー……そのおっさんたちってのはどこにいんだ」
 えらく順応性が高くなったもんだと我ながら関心する。
 ルフィと連むようになってからこういう唐突に発生する事象に対していちいち動じなくなった。
 少女に教えられた石泥棒たちの住処は少女と出会った路地を進んだ先にあった。年季の入った廃工場は無法者共の寝ぐらとしてはいかにも過ぎるような気もした。
 やけに静かな空間に違和感を感じながら錆びた鉄扉を開けると、地に伏した数十人の野郎共の真ん中で佇むレンの姿があった。
「ゾロ」
 細剣を抜いてもいないレンがフランクフルトを片手に振り向きながらにゾロを呼んだ。直後に響き渡るぱりん、というやけに食欲をそそられる——レンの歯がフランクフルトに突き刺さった——音に自然と深い溜息が漏れた。
「なんか疲れてるね」
「お前なぁ……はぐれンのはいいが……いやよくはねぇが。うろうろうろうろ、あっちこっち歩き回るな。ここまで来んのにえらい遠回りさせられた」
「私が会計し終わって振り向いたらゾロいなかったよ。はぐれたのはゾロの方」
「ンなわけあるか」
「えー」
 呻き声を上げている野郎の胸元へと蹲み込み、懐に手を突っ込みながらレンは言う。おそらく少女の盗られた石を探しているのだろう。
「まぁでもうろうろはしちゃった。街を散策するのが好きなの。手間かけてごめんね——あ、これあげる」
 美味しいよ。
 こちらを振り向きもしないままに手渡されたそれは、どうやらこの街の名産品らしい金平糖だった。甘いものはそうでもなかったが、いらないとも言いにくいので貰っておいた。
 レンの手が男の懐から綺羅輝羅とした宝石を取り出したかと思うと、立ち上がったレンは行こうと言ってさっさと歩き出す。倉庫の端に置いてあった紙袋——おそらくはゾロとはぐれた後にレンが調達した買い物リストに記載されていたものたち——へと近付いて両手で持ち上げてから倉庫の出口へと向かっていく。ぱっと見ただけでもゾロの持っている紙袋と同じか、それよりも少し重そうに見えた。
 先を歩くレンに追いつくのと同時に、矢鱈とでかいその紙袋を奪い取った。レンはゾロを見上げて暫し見つめた後で、小さく笑ってありがとと言った。
 両腕に紙袋を抱えレンの後ろについて少女の元へと戻る。少女はレンから受け取った母親の形見を大事そうに抱え、二人に何度もありがとうと言って泣いていた。
「すこし歩いてから帰ろ」
 少女と別れたレンの足が再びさっさと歩き出す。
「散々歩いただろうが……」
「あとは帰るだけだから」
 振り向いたレンは先程見たのと似たような淡い笑みを浮かべていた。——これが、二回目だ。
 絶対はぐれちゃ駄目だよと言ったレンの尻尾の後ろを黙って着いていく。雑踏の中でもレンのヒールが煉瓦に当たるコツコツとした音が耳を衝く。城の中で聞くのとは少し違う。——なんとはなしに、レンの足音はどこで耳にしても聞き取れるような気がした。
 辿り着いた高台の天辺で、レンは手摺に胸を預けながら西日に照らされた橙色の街並みを眺めていた。
 今日一日で知れたレンのこと。
 散策が好きなこと。困ってる奴を放って置けないこと。意外に容赦のない喧嘩をすること。
 消えてしまうみたいな顔で笑うこと。

 ——忘れたくない。

 唐突に頭に過ったその言葉は、サンドイッチを食べたあの晩にレンが口にした言葉だった。
「お前、東の海(イーストブルー)でおれを見た時——何を思い出してたんだ」
 両腕の荷物を担ぎ直してそう口にすると、ずっと街を眺めていたレンが振り向いた。
「どうして?」
 感情の乗っていないその顔は、今まで見たどの表情とも違っていた。
「忘れたくねぇことってなんだ」
 踏み込んだかもしれない。
 そう思ったときには既に遅く、口から吐き出された言葉は取り消すこともできない。
 二人を包む沈黙にどうしたものかと悩んでいる間にレンは再び橙色の街並みへと視線を戻し、なんて言ったらいいかなと独り言のように呟いた。
東の海(イーストブルー)でミホークに胸を貫かれそうになっても退かないゾロを見ていたら、自分が昔に剣を向けたものがどういうものだったのか——思い出した」
 あの時のことを鮮明に覚えているかと問われるとわからない。ただ、絶対に退きたくないと思ったことだけは覚えている。
「——ヒトが抱く生への渇望とか、生きる意味とか。そういうものと必死に向き合う、生きたかった人たちの希望、とか」
 一番遠くの空を見つめながら話すレンの隣に並び、手摺りに背を預けて耳を澄ませる。いつもは落ち着いていながらも温度のあるレンの声が、今は酷く冷えているように感じた。
「絶対に忘れたらいけないことだったのに、覚えていろって言われたのに——。知らない星に来て、ミホークに敗けて、剣を覚えて、美味しいものや初めてのものをたくさん見て……楽しかった。——そうしてる間に忘れちゃったものをね、あの時のゾロを見ていたら思い出せた。私が殺したものがどういう想い(もの)だったのか、思い出した」
 視線だけでレンを見ると、僅かに逸らした横顔だけしか見えなかった。
「……正直お前が何を言ってンのかは全然わからねぇ。けどまぁ——思い出せたんならいいんじゃねぇのか。一回思い出せたなら、もう忘れねぇだろ」
 思い出して、それで終わりではないのだろう。思い出したからこそ、二度と忘れることができなくなった。
 自分が手にかけたものたちのことと、それらが抱いていた想いと、自分の感情。
 おそらく一番重いのは、レンの感情。
 ——それはそうだろう。いつだって厄介なのは、自分の中から生まれる感情だ。
「後悔してんのか。お前の言う——そういうものを殺したこと」
 してないから嫌になると、レンは自嘲気味に笑って言う。
 いつの間にかに沈んだ太陽の代わりに昇った月は、二人を照らすこともなく雲の後ろに隠れている。
「——どうあっても意見が異なる。いくら話しても納得できない。二つの意見を両立させることは絶対にできない。両者に明確な善悪もない。けれど——必ずどちらかを選ばなければならない。……そんな相手との決着のつけ方を、知ってる?」
「ンなもん——自分の信じる方を掴み取るしかねぇ」
「うん、私もそうした。私は私の信じるものを選んで、剣を抜いた」
 してないんだ、後悔。
 まるでそれが罪のように口にするレンがどんな顔をしているのか、正面から見てみたいと思っても、そうすることができない自分にもどかしさを感じていた。
「人が人を殺してもいい道理なんかないよね。命を奪うという行為はたとえどんな理屈を捏ねようがただの暴力でしかない。そんな当たり前のこと、わかっていたのにそれを選んだ。私は私の都合で——星一つ分の命を殺したの」
 比喩なのか、そうでないのか。
 比喩でないのだとして、レン(こいつ)はこの小さい体に一体どれだけのものを背負っているのだろう。
「その選択の上に私は生きてる」
 それは人に話して聞かせていると言うよりも、自分自身に言い聞かせているように思えた。
 雲が風に流されて、隠れ続けていた月燈がレンの顔を照らす。赤い瞳に青白い月燈が反射して、潤む眼球がよく見えた。
「思い出させてくれてありがとね」
 そう言ってようやくゾロの方を見たレンの瞳から零れ落ちた雫を目にした瞬間、時間が止まったような気がした。
「……おれは何もしてねぇよ」
 詰まりそうな喉の奥からなんとかそれだけを口にした。
 無愛想にそう言ったゾロに何故だか小さく笑ったレンは、しばらく体を預けていた手摺りから体を離して背を向けた。
「帰ろう、ゾロ」
 名前を呼ばれて、なぜだか胸が熱くなった。特に意識するでもなく勝手に眉間に皺が寄る。この街の大人たちに物騒がられたそのときよりも一層治安の悪い顔になっている自覚はあったが、自分がどうしてこんな顔をしてるのかはわからない。
 過去にあったあれこれをいちいち聞き出すつもりは毛頭ないが、流れた涙の意味が気にならないと言えば嘘になる。もし今この両腕が荷物で塞がっていなかったなら、自分は一体どうしただろうかと——垂れ下がったレンの尻尾を眺めながらにそんなことを考えていた。
 胸に残ったその(わだかま)りは古城に戻ってベッドに寝転んだ後も消えることはなく、脳裏にはレンの泣き顔がいつまでも残り続けた。
 ポケットに入れたままだった金平糖の封を切り、そのまま一気に口の中へと流し込む。
 口一杯に広がる甘さごと、全てを噛み砕くようにがりがりと音を立てて粉と欠片になったそれらを飲み込んだ。
「……甘ぇ」
 無性に、喉が渇いた。