煙草の煙が目に沁みる

リリース前の誇大妄想です。
season0ボイスドラマ18時点で書いてます。

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 お世辞にも広いとは言い難い都会のビルの一室。軽率にスプリングが軋み出すダブルベッドと、締め切りの窓。所々綻びの見える合皮のソファに、シンプルなガラス天板のテーブル。そのテーブルの上には、無駄に豪奢に見えるガラス製の大きな灰皿と、プラスチックボディのロゴ入りライター。何故か扉の中に収納されている、缶ビールとミネラルウォーターのペットボトルが数本だけ入っている小さな冷蔵庫。ターンテーブルの上に乗せられた小振りのテレビ。シャワールームはガラス窓にはなっていないし、ジャグジーもない。随分と水圧の弱いシャワーと、風圧の弱い備え付けのドライヤー。極め付けは、絶妙な周波数が耳に障る置き型エアコン。それら全てがこれまでの時代を感じさせる、良く言えば“味のある”部屋だった。

 いつもはワックスで後ろに流している赤銅色の髪は綺麗に洗い流され、横たわる体と共にベッドに投げ出されている。存外柔らかいその毛質を確かめるように無骨な指を滑らせている手の主は、枕を背凭れにして煙草を咥えていた。非喫煙者の紅の方に煙が行かないようにと、蓮とは反対側の手に咥えていた煙草を挟むとベッド淵から下へと腕を降ろす。
 こちらへ向けられた背中に名前を呼んでみても反応はない。背中しか向けてもらえない哀れな男は、それすらも愉しむように、先程まで煙草を挟んでいた指で掬いとった髪の一房に唇を寄せた。

「……鷹見」
「何?」

 仄かに香るシャンプーの匂いを煙草の匂いが包み込む。髪についた匂いはいつまでも消えずに残るものだ。マーキングのようで癪に障ると当初は嫌がった蓮だったが、このヘビースモーカーは甘い顔をしながらベッドで吸うのを辞めてはくれなかった。
 この男はいつもそうだ。優しい男、話のわかる大人、そんな肩書を顔面に載せたような雰囲気を纏っている割に、人の話は存外に耳に入っていない。

「俺、明日仕込みで朝早いからって、言ったよね?」
「うん、聞いたよ」
「寝かせてくれる?」
「いいよ」

 鷹見に背中を向けたまま、蓮は触れられた髪を引き摺るように、体ごとベッドの淵の方へと僅かにずれた。
 元々2人で寝るにはそう広くはないベッドだ。体を離そうと思ったところで、そうそう距離を取れるものでもない。
 案の定、離れ去って行く髪を追うように伸ばされた鷹見の手、その指先で、蓮の耳上に被さる髪がそっと払われる。
 髪の下から表れたのは、耳朶に一つだけ添えられたシンプルな黒い石のついたピアスだった。
 表れたピアスに、鷹見の指先が触れる。
 瞬間、蓮の腕が勢い良く鷹見の手を振り払った。

「あのさ鷹見、何してるの」
「このピアス、つけ始めてから長いの?」
「ピアス?あー、どうだろ。いつだったかな、結構前に自分で買ったものだけど」
「そう」
「何なの急に……」

 それなりに力強く振り払われたにも関わらず、鷹見は特に気にした様子もないまま何事もなかったかのように煙草に口をつけた。気が付けば、灰がかなり落ちそうになっている。

「鷹見」
「ん?」
「ほんとに、もう、寝かせて」
「いいよ」

 口調だけ聞けば、子供に何かを強請られ快く承諾をする親のような、柔らかい声色の二つ返事ではある。しかし蓮にとっては、こんなにも意味のない空返事があるだろうかという思いで、こめかみに青筋が立ちそうだった。
 不意に年季の入ったスプリングが軋み、鈍い音を立てた。
蓮が首だけを緩く動かして視線を寄せると、鷹見がテーブルの灰皿まで火を消しに行くのが見えた。
 ―灰皿のあるところで吸えばいいものを。
 今にも声になりそうな思いは辛うじて音にならずに飲み込んだ。ここで口に出して会話に発展してしまうよりも、鷹見がいない間に眠りに落ちるのが正解だと、蓮は睡魔の過ぎる頭の中で思案する。
 薄い布団を肩まで被り直し、重い瞼をそっと降ろした。
 部屋の隅で小さな物音が聞こえた気がするが、今は気にしている余裕はない。瞼を閉じる間際に視界に入った塵箱の中身が、余計に自分が疲労していることを思い出させた。
 心地良い微睡みに今にも意識を落としそうな最中、再びスプリングが軋みマットレスが鎮む。
 ―ようやく寝る気になったか
 そう安堵したのも束の間、鷹見の指が何の前触れもなく蓮の耳朶を挟むピアスに触れた。

「ちょ……、何して―」
「じっとしてて」

 蓮が起き上がる間も無く取り外されたピアスの代わりに、何か別の物が露わになったピアスホールをすぐに埋めた。

「なに……?ピアス……?」

 いい加減寝転がってもいられない。心地の良い微睡みも気付けば何処か遠いところに行ってしまった。
 蓮は重たい体を起こし、枕を背凭れにしつつ自身の耳朶に触れる。
 どうやら今までとは違うピアスが刺さっているようだった。触った感触だと、小さな丸い石が付いているシンプルなものだ。

「蓮に似合うかなと思って。そのサイズの石は、結構珍しいんだよ」

 部屋が暗く鷹見の表情まではよくわからなかったが、その声色は随分と柔らかい。
 言いたいことはそれこそ色々あったが、とりあえず今は、耳に添えられたそれがどのような物なのかが気になっていた。

「電気つけてくれる?」

 鷹見がヘッドボードのスイッチを入れると、途端に電球色の光が一面に広がった。余りの眩しさに蓮は咄嗟に目を瞑ったが、すぐに鷹見が調節してくれたのだろう。光のボリュームが抑えられ、程なく瞼を開くことができた。
 手近にあったスマホへと手を伸ばし、黒い画面を鏡代わりにしてみたが、当然よく見える筈もない。

「はい、鏡」

 鷹見から差し出された掌サイズの鏡にどこか腑に落ちない感情はありながら、蓮は「ありがと」と短く言葉を返し、受け取ったその小さな鏡面に自身の耳朶を映し出した。
 蓮の耳朶に添えられていたピアス。それは、黒み掛かった灰青色をベースに薄水色の斑模様が薄らと入っている石が据えられた、小振りで、落ち着いたデザインのスタッドピアスだった。
 この石には、見覚えがある。

「……鷹見って、独占欲強めなの?」

 ジッポライターの蓋が締まる音と同時に、鷹見の口から煙が細く吐き出された。

「どうかな」
「自分の名前の付いた石のピアスを刺しといて、どうかなって言う?それこそどうなの」
「手厳しいね」

 言いながら返された鏡を受け取り、わざとらしく困ったような笑みを漏らしながら、ふと蓮の横顔を見遣る。スマホの画面、恐らくは時計を見つめながら小さく溜息を吐いていた。耳には付けたばかりの黒い石が光っている。
 先程テーブルから持ってきておいた、ヘッドボードに鎮座している灰皿へと火を点けたばかりの煙草を押し当てる。長いまま押し付けた為か、中程で折れてしまった。

「蓮」

 未だにスマホの画面を見つめている蓮の顎へと鷹見の手指が伸びた。一度顎下を指の腹で撫でてから、引き寄せるように指先でそっと持ち上げる。
 その指に導かれるように蓮の顔が鷹見の方へと振り向くと、「何」という返事が音を成す前に、蓮の唇は塞がれていた。鷹見の腕の支えがマットレスを軋ませる。
 一度触れて、僅かに離して。紅が言葉を紡ぐ前に、その上唇を食むように。
 息が出来ないわけじゃない。抵抗出来ないわけじゃない。それでも何故か、蓮はその紅い瞳から目が離せない。
―全ては鷹見が、目を閉じないのが悪いのだ。
 気付いた頃には距離は随分と詰められて、並んで座っていたと思っていたのは過去のことなのだと。蓮は鷹見を見上げていることにようやく気付いた。

「たか、み……っ、」
「……ん?なに?」

 蓮の両手が鷹見の頬を包み込み、ようやく届いたその声は、荒い吐息の混ざった実に煽情的な呼び声だった。鷹見はおざなりに返事をしながら頬にある蓮の手に自らの手を重ねてから、やんわりと頬から離し自身の首へと回させる。鷹見の舌が蓮の唇の端から溢れた一筋の唾液を掬い上げた。

「明日、……というか今日」
「……仕込みで朝、早いから?」
「……ん、だから、」

 ——巻きで、しよ

 言葉尻は最早吐息のようなものだった。
 熱を孕んだ瞳が、吐息が、五感で触れる全てが鷹見を魅了する。
 妙に色気に欠ける蓮の言葉選びにすら小さく笑みを漏らし、囁くように「いいよ」と呟いた。
今日聞いた何度目かの返事を合図に、蓮は鷹見の後頭部を抱き寄せる手に力を込め、唇を重ねた。

「…ぁ、ピアス」
「ん……?」
「……ありがと」
「どういたしまして」