ミズキと
美味しいカレーの話

リリース前の為諸々全て妄想です。
season0ボイスドラマは#20時点で書いてます。

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「うっせーんだよ! クソリンドウ! 偉っそうに指図すんな!」

 レッスン室の扉が勢い良く開け放たれたかと思えば、辺りに響き渡る程の割れるような音で叩きつけるように閉められた。閉まり行く扉の中から何か声が聞こえたが、残念ながらミズキの耳には届かない。
 床を踏み鳴らしながら出入り口を目指していたが、ふと鼻を擽るいい匂いに自然とミズキの足が止まる。途中で抜けてきたとは言え、散々動き回った後のミズキの体には、その匂いがまるで猫にとっての木天蓼のように感じられた。吸い寄せられるようにキッチンへと足を運ぶと、その匂いは一層濃く感じられる。
――これは、好きな匂いだ。

「ミズキ?」

 不意に感じた人の気配に、蓮がカウンターから顔を出す。どこかバツの悪そうな顔で立っているその姿に、蓮は口の端を僅かに上げた。

「飯食う? キーマなカレーだけど」
「……食う」

 程なく出されたキーマカレーを、ミズキは皿を持ち上げて無言でスプーンを進めていく。
――期待したカレーライスではなかったが、このカレー味の肉も悪くない。
 そんな台詞をミズキの様子から察したのか、蓮は満足そうに微笑んで水の入ったタンブラーをカウンターへと置いた。おもむろに天井へと軽く体を伸ばし、先程までの仕事の続きへと戻る。スプーンが皿にあたる音と、包丁がまな板を叩く音だけが辺りに響く、実に静かな空間だった。

「なぁ」

 スプーンが皿に置かれるのと同時に、少し離れた蓮の耳にミズキの呼び声が聞こえた。

「んー?」

 返事を返すその間も、蓮の手は止まらない。
 その様子を特に気にする様子もなく、ミズキは何の気なしに言葉を続けた。

「蓮もさぁ、なんかー、練習したりとかすんの? 料理の」

 カウンターに背を向け寄りかかりながら、ミズキの視線は宙を泳ぐ。その表情は蓮の位置からは見えないが、蓮も見ようとはしなかった。

「練習かぁ。まぁ、そうね。舌は使わないと鈍るから、色んなもの、食うようにはしてるかな。美味いもんも、美味くないもんも」
「美味くないのに食うのかよ」

 意味がわからない、とでも言いたげな口調でミズキの声が渋る。素直なその様子に蓮はどこか楽しげに目を細めながら、寸胴に沈めている木製のスパテルをゆっくりと掻き回していく。

「うん。ほら、ミズキ、カレー好きだろ」
「当たり前ぇだろ。カレー嫌いな奴なんかいねー」
「例えば俺がカレーを嫌いだとする」
「まじかよ!? 信じらんねー!」
「うん、例えばね。……で、俺はカレーの事を好きじゃない、つまり美味くないって思ってる。でもミズキはカレーがめちゃくちゃ好き、美味すぎるサイコー!って思ってる」
「思ってる」

 気付けば背を向けていた筈のミズキの体がカウンターに身を乗り出すようにして厨房の中を覗き込んでいる。ミズキの瞳に白い小皿にそっと口を付ける蓮が映った。

「俺が俺の美味い、美味くないだけで飯作ってたら、俺は一生ミズキが一番美味いって感じるもんを作ってやれなくなるよ」
「はぁ!? 困るだろそんなん!」
「だろ? だから俺は、俺が美味いって思わないものも食うんだよ。俺以外の美味いも全部飲み込んだら、そのときはきっと、俺の美味いも俺だけの美味いじゃなくなるかもしれないし、誰かの美味いが俺の美味いの一つになるかもしれない。ここに立ってる時の俺の舌は、俺だけの物じゃないから」

 蓮の手がいくつかの調味料を加えてから再度小皿に口をつけた後、小さく「うん、美味い」と呟くのが聞こえた。その声が、表情が、何故かミズキには眩しく見えて、何かを掻き消すようにタンブラーの水を一気に喉に流し込む。

「よくわかんねー」
「そっか」

 言い捨てるように言葉を投げたミズキの手が、皿とタンブラーをキッチン側へと押し出した。縁ギリギリで止まったそれを、いつの間にかカウンターへと近付いてきた蓮が回収する。

「帰るの?」
「……レッスン戻る」
「そっか。頑張って」
「うっせ。……飯、さんきゅな」
「どういたしまして」

 蓮の顔を一切見ずにレッスン場へと走り去っていくミズキの背中を見送ってから、手に握っていた皿をシンクへとそっと置いた。

「……それで?」

 蛇口を捻ると水が勢い良く噴き出した。蓮は泡立ったスポンジでカレー色に染まった皿を丁寧に磨きながら口を開く。

「貴方もお腹が空いたの? 黒曜」

 キッチンの入り口。腕を組み、大きな冷蔵庫にその広い背中を預けて黒曜は立っていた。

「お前、よく言うぜ」
「何が?」
「お前、不味いもん絶対食わねぇし、自分の料理は誰が食っても美味いもんだと思ってるだろ」
「うん」
「さっきのはなんだったんだよ」
「美味くないと不味いは別。美味くないは好みだから。好みを知ることは大事でしょう?」
「そうかよ」
「兄貴分は大変だ」
「そんなんじゃねぇよ」
「ホットミルク飲む?」
「貰うわ」
「待ってて」

 蛇口を捻り水が止まったのを確認してから蓮の足がコンロへと向かう。小さな鍋に注がれた牛乳を温めながら、蓮は視界の端にキッチンの入り口を収めた。ミズキが去っていった彼方を見つめる黒曜の口端は、僅かに上がっているように見えた。