湿った煙草

「只今戻りましたー……外すごい土砂降りでしたよー。社長が急に呼び出すから全身びしょ濡れです……」

 地上へと続く通路から騒がしい足音が近付いてくる。出入り口から少し離れた場所にある喫煙所まで徐々に聞こえてくる騒音に、黒曜は苛立たしげに舌を打った。当て付けのように煙草を灰皿へと押し付けてから煙の充満した喫煙所を後にする。小部屋の扉は力任せに閉じられたせいで、何かが軋んだような音がバックヤード全体に木霊した。

「煩ぇぞ運営! 雨に濡れたくらいで騒いでんじゃねぇよ。傘も碌に使えねぇのか」
「ひっ! す、すみません……! 傘、途中で風に飛んでっちゃったんです……すみません……っ」

 騒音の元凶を視界に入れた途端、黒曜の怒号がスターレスの鉄筋コンクリートの壁を震撼させた。
 唐突に怒鳴られたことで、いつも丸みを帯びている運営の背中が更に小さく見える。大雨に晒されたせいで随分と重くなっているシャツとスラックスも相まって、まるで縮こまった小動物のようだった。
 
「まぁまぁ。運営くん、大変だったっスねぇ~。タオル、あるっスよ~」
「カスミさん、ありがとうございます!助かります!」
「おいカスミ、あんま甘やかすなよ」

 近くの椅子に腰を下ろしながら、黒曜の口からは呆れたような溜息が盛大に溢れていた。
 ふと運営が、思い出したようにタオルから顔を上げる。

「そういえば……ここに戻る途中に蓮さんを見かけましたよ。この雨の中、買い出しですかね?」
「あー……蓮は、大雨の日は早く帰るんスよ。雨、あんまり好きじゃないみたいっスね」
「嫌いなら止むのを待てばいいのに……服とか、結構濡れちゃってましたよ」
「……さぁな。嫌いなだけの大雨って訳でもねぇんだろ。放っとけよ」

 言いながら黒曜は、見えもしないキッチンへと視線を流し、聞こえもしない雨音に耳を澄ませていた。

 あまりにも大き過ぎる雨音は収束すると無音になるということを、蓮は随分も前から知っているようだった。テレビの砂嵐のような雑音が次第に遠ざかり、やがて一番遠い所にたどり着く。鼓膜も思考も通り過ぎて、地平線に立っているような感覚が全身を包み込んでいく。
 蓮はこの瞬間が堪らなく好きだった。
 ただ燃やしているだけの煙草を指に挟み、音のない音にじっと耳を澄ませている。
 ずっと続けばいいと、そう願った瞬間に、その想いは報われることなく霧散した。

「煙草、吸わないと思ってた」

 雨音に支配されていた空間に、音の雫が波紋を作る。それまで無音だった蓮の世界に、アスファルトを叩きつける雨音が騒音のように割り込んできた。閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げ、声のする方へと視線を寄せる。暗い路地裏に、赤い瞳が光って見えた。

「吸ってないよ。火点けてるだけ」

 薄暗い路地裏の天井には、申し訳程度に裸電球がぶら下がっている。トタン板を乗せただけの屋根とも呼べない屋根の下。蓮は冷たいコンクリートの壁に背中を預けて立っていた。周囲のあちこちから雨水が滴り落ちている。
 赤い瞳の持ち主は、今にも崩れ落ちそうなトタン屋根を濡れたレンズの内側から見上げると、素っ気のないビニール傘を畳み、屋根の下へと足を進めた。おそらくは蓮の持ち物だろう畳まれたビニール傘の隣へと、自分の傘をそっと立て掛ける。
 近付きしなに、その手が蓮の指に挟まる煙草を抜き取ると、おもむろに自らの口へと運ぶ。

「……ちょっと鷹見」

 蓮の制止も聞かず、赤い瞳の男――鷹見は、ゆっくりと肺まで吸い込んでから深く煙を吐き出し、そしてそのまま、蓮の唇を塞いだ。

「……っ、な、に……ッ」

 文句を言うために開いた唇から鷹見の熱い舌が容赦なく口腔へと入りこみ、言いようのない苦味が舌の上へと広がっていく。
 蓮の眉間に皺が寄るのが鷹見にはよく見えた。

「……この煙草の味が好きなの?」
「……は、ぁ……そういうんじゃないよ。……それより、なんで?」
「なんとなく、かな」
「鷹見はなんとなくで、同僚にキスするの」
「今に限って言えばね」

 蓮の口から溢れた小さな溜息は、再び塞がれた唇に全て飲み込まれてしまった。
 薄く開いた蓮の瞳には、鷹見の真っ赤な瞳が映り込んでいた。

「その、目……っ、……好きじゃ、ない……ッ」

 唐突に告げられた言葉に鷹見は一度は目を丸くして唇を離したが、小さく息を漏らした後にはもう既に、目を細めて口端を綻ばせていた。蓮の頬に張り付いている湿った赤銅色の髪を、煙草を握ったままの指先でそっと払う。

「そうなの? それは知らなかったな……俺の目を見つめてくるのはいつだって、君からだったから」

 時が止まった気がした。トタンを鳴らす雨音も、鬱陶しく点滅する裸電球も、髪から滴る水滴も、全てが静止したように感じられるほど、長い一瞬だった。

 ――なんて不遜な。思い上がりも甚だしい。勝手に言っていろ。おめでたい頭だ。一体どんな顔して言っているのやら。勝手を言うのはやめてくれ。信じられない。恥ずかしい。ああ。なんということだ。確かに。俺は。そうだ。いつだって。その目が。気になって。

 人は自分がその瞬間どんな表情をしているか、鏡を使わなければ正しく認識することは難しい。上手に笑っているつもりでも眉間に皺が寄ることはあるし、悲しみに共感したつもりでも口元が綻んでしまうこともある。一番困るのは、どんな表情をしたらいいかわからないまま、自分のあずかり知らぬところで表情が作られてしまうことだ。
 口許に片手を添えたのは衝動だったのだろう。蓮は驚きのあまり目を見開いた後、ゆっくりとその視線を足元へと下ろした。好きじゃないと口に出しておきながら、この瞬間まで件の瞳をご丁寧に見つめ続けていた事実に、自らの耳が熱くなるのを感じた。

「蓮……?」
「最悪だ……」
「最悪?」
「ああ最悪だ。全てが。俺も、貴方も、この雨も。もう全部が最悪すぎる」
「そう?俺は嫌いじゃないな。全てがね」

 鷹見の掌が蓮の頬を包み込み、紅が下ろしたばかりの視線を合わせてくる。正面から見据えた赤い瞳は、相変わらず全てを見透かしたような色をしていて、蓮の焦燥を掻き立てた。

「キス、してもいい?」
「散々勝手にしておいて、今更聞くの?」
「一応ね。好きじゃない、って、言われちゃったし」
「……鷹見って、性格悪かったんだね。知ってたけど」
「酷いな。最初に傷付くようなことを言われたのは俺なのに」
「傷付く? 鷹見が? 冗談でしょう。俺の純粋で純情な唇を奪っておいてよく言う」
「それは、そうだね。純粋で純情かどうかは、わからないけど」
「減らず口」
「塞いでみる?」

 安い挑発だった。ただ今の蓮には、そのくらいが丁度良かった。
 蓮の手が、鷹見の眼鏡をそっと外す。隔たりのなくなった目元を指の腹で撫でるようになぞってから、その目尻へと唇を落とした。そのまま頬へ、口端へと音を立てて触れていき、最後に鷹見の唇を舌先でからかうように弾いてみせた。

「焦らされているのかな?俺は」
「それは受け手の捉え方次第。物事って、そういうものでしょ?」
「そうだね。……それじゃあ、蓮」
「……何?」

 ――もう黙って。
 唇に触れる直前に呟かれた言葉は終ぞ意味を成すことはなかった。蓮がそれを認識し、実行する前にはもう既に唇は塞がれていたし、思考を正常に働かせるには些か遅すぎた。
 いつの間にか正面から見れるようになった赤い瞳が、満足そうに細められたのが蓮の癪に触る。
 唾液の混ざり合う水音が、五月蝿い雨音の中に上手く紛れ込んだ。
 まるで初めから自分の持ち物だったかのように、我が物顔で鷹見の手の中に納まっている煙草の火は、いつの間にか、雨に濡れて消えていた。