敬愛と懇願

 部屋の隅で焚かれた香の煙が天井へと伸びている。サイドテーブルには手元を照らせる程度のランプが一つ。その灯りは、枕を背もたれにしてベッドに入っているウリエンジェの手元にある書物だけを照らしており、ウリエンジェの視線もその書物に書かれた文字を静かに追っている。
 既に長躯のエレゼン男性一人を内包している、控え目に表現しても決して広いとは言い難いシングルベッドの端で、冒険者はマットレスに片肘をついた手のひらに頬を乗せた状態で横になっていた。
 最初はウリエンジェの手にある書物に興味を示していたようだが、冒険者の位置からでは本の中身までは確認することができない。起き上がればいいだけの話ではあるが、今はそういう気分ではなかった。
「そういえば、タタルに巴術士のことを聞かれた?」
 本に視線下ろしたままのウリエンジェの横顔を、冒険者は興味深そうに見つめている。
 ウリエンジェがいつも身につけているゴーグルやフードは、今現在においてはその役目を果たしてはいない。稀にしかまみえることのできないその横顔を、冒険者は先ほどから飽きもせずに見つめている。
「ええ……巴術とはどういうものか、誰から学べばよいか等、それはそれは熱心に尋ねられた後、かの海都へと赴かれました」
 冒険者が暁の敏腕受付嬢であるタタルを追って、リムサ・ロミンサを訪れたのは、つい昨日のことだった。
 それなりに紆余曲折はあったものの、コスタ・デル・ソルの海岸で手を振ったタタルの姿を見るに、これ以上の心配は不要に思えた。
「止めるべきだったと、思われますか」
 ウリエンジェの視線は未だに本の文面をなぞってはいるが、冒険者にはそれが、文字の上部だけを撫でているに過ぎないことを察していた。
「思わないよ。タタルにとって、貴重な経験になったと思う。――もちろん、いい意味でね」
 落ち着いた様子の冒険者のその言葉に、ウリエンジェはほんの僅かに微笑んで、開いていただけの本をようやく閉じた。そしてふと、なにかを思い出したかのように、視線を落として重い口を開いた。
「ミンフィリアから伺いましたが」
 膝に置いたままの本の表紙に視線を落としたまま、ウリエンジェは言葉を探すように、その本の表紙をゆっくりと撫でている。
「ウルダハ王家主催の戦勝祝賀会に、参加なさるとか」
 冒険者は何も言わずに、そのままただ頷いた。
 ――戦勝祝賀会
 先のイシュガルド防衛戦にて、三国とイシュガルドが共闘して勝利を収めたことを祝す場であり、今後のエオルゼア同盟軍にイシュガルドが加わるための足掛かりになり得る貴重な場でもある。それを理解しているからこそミンフィリアは、悩みながらも参加を決意し、冒険者もまた、そんなミンフィリアの意を汲んでいる。
「かの地は現在、陰謀渦巻く混沌の中心地。貴方と暁に、陰が落ちないことを祈らずにはいられません」
 ようやく冒険者の方を向いたウリエンジェの表情は、胸の内に燻っている苦悶をなんとか押し留めているようだった。
 いつもはゴーグルに覆われているその瞳が、冒険者の目から見てもわかるほどに揺れている様を正面から見据えて数秒、冒険者は、そのままにこりと笑って見せた。
「それならウリエンジェ、俺にいい考えがある。その大層な坩堝に俺が飲まれてしまわないように、まじないをかけてくれないかな」
 言って、冒険者はウリエンジェの頬へと手を伸ばし、その整えられた髭を親指の腹でなぞる。
「たとえ眼前を暗い陰で覆われようとも、俺がこの身に宿った灯火を消すことがないように」
 未だ不安に揺れるウリエンジェの瞳には、躊躇いも、戸惑いも、驕りすらない、いつも通りの冒険者の微笑みが映っている。
 ウリエンジェは何か言葉を返そうと、ほんの僅かに口を開くが、その言葉が音になることはなかった。静かに口と目を閉じ、そして今度は穏やかに口元を緩ませた。
「……私は、陰そのものが落ちないようにと、祈るつもりだったのですが」
 ウリエンジェは頬にある冒険者の手に自らの手のひらを重ねると、やんわりと指を絡ませながら、その指先を自らの手のひらで掬うようにそっと握った。
 冒険者は片手をウリエンジェの好きにさせながら、どこか楽しげに目を細めて言葉を返す。
「万が一の備えは、常に必要なれば――かな」
 どこか芝居がかっているようにも感じる冒険者の言葉に、ウリエンジェは一瞬瞠目したが、すぐに眉尻を下げて薄く口端を上げた。そしてゆっくりとした動きで、冒険者の手の甲へと、頭を垂れてこう告げた。
「――貴方の心に宿る灯火が、絶えずそこにありつづけんことを」
 静かな、それでいて凛とした、耳に心地よい声だった。
 額から離したその手の甲へと一度。そして、恭しく両手で返した手のひらへと一度。ウリエンジェは、音もなくそっと口付けた。