更けた夜に大皿を喰らう

 戸棚に収まっている様々な酒のラベルを尻目に、ゾロは冷蔵庫から水の入った瓶を取り出した。酒が視界に入らないように歩きながら味気のない透明な液体を喉に流し込む。冷えた水が体の内側から沁み渡り、戦闘後の体の渇きはいくらか まし (・・) になった。
 夕食後にも散々体を動かしたせいで何か腹に入れたくなって、調理台に寄りかかり夜食になりそうなものがないか広い調理場を眺めた。綺麗に整頓された調理器具や食器に視線を流していると、不意にここ数ヶ月のことが頭の中を足早に通り過ぎていった。
 無駄に広く、足音ばかりが響くこの城で寝起きするようになってから暫く経つ。
 シャボンディで仲間とは散り散りになり、自分がどこにいるのかもわからないままに焦りと時間だけが凝縮して流れていたところに ミホーク (鷹の目) とレンが現れた。二人から知らされたルフィの現状に焦りばかりがさらに積み重なって、衝動だけではこの島から出ることすらできない自分に苛立っていたところにルフィからのメッセージを受け取った。
  ペローナ (幽霊女) が見せてきた新聞に載っていたルフィのメッセージには正直驚いたが、修行の時間を得られたことは素直にありがたい。
 碌に刀を奮うこともできず、仲間を守れず、為す術もなくここに飛ばされたときのことは今でも鮮明に思い出せる。——あんな想いをするのは二度と御免だ。
 強くなりてぇ。 
 胸に湧いてくる止め度ないもどかしさを握り潰すようにしてゾロが自らの掌を強く握り込んだ瞬間だった。
「何か作ろうか」
 声のした方へと反射的に顔を向けると、調理場の入り口の壁に寄りかかるようにして立っているレンの姿があった。そう距離があるわけでもないのにまったく気配を感じさせないのは流石は ミホーク (鷹の目) の一番弟子と思わざるを得ないが、自分がまだそこへ辿り着いていないことがもどかしかった。
「——いや、なんか食い物あるか。なんでもいい」
「私も小腹が空いたから来たの。簡単なものでよかったら作るよ」
「……なら、頼む」
 サンドイッチでいいかな、と言って調理場へ足を踏み入れたレンのヒールの音がやけに心地良く、コートのスリットから伸びている白い尻尾が揺れているのに視線を寄せながら、ああ、と生返事を返した。

 こうして他人が料理している様をよくよく見ることはなかったと——ゾロは空になった水の瓶を片手にそんなことを考えながらレンの調理姿を眺めていた。
 食材に触れているレンの手や指は自分のそれに比べて随分と細く小さく見える。あの手がレンの腰に提げられている細剣を奮うのかと思いその姿を想像してみたが、なかなかイメージできなかった。
 こいつが剣を奮う姿はどんなだろうか。
 無意識にレンのコートの捲られた袖から覗く白い腕に刻まれた無数の傷痕を見つめてしまい、急激に喉が渇くような心地になった。キャップを外して煽った空瓶から滴る一雫が喉の奥へと落ちていった。
「できたよ」
 サンドイッチの載せられた大皿を片手にレンが振り向いた。
 二人分にしてはやけに多い。
「……夜食って量じゃねぇな。ありがてぇが」
「作ってたらお腹空いてきちゃって増えたの」
 食堂に行くのも億劫で、端に寄せられていた小さな木の丸椅子を調理台へと寄せて並びで食べることにした。レンの持って来たワイングラスに注がれた水を揺らしてなんとなく乾杯をしてからサンドイッチに手をつけた。
 美味い。
 毎日勝手に出てくる食事もレンが拵えているのだと、このサンドイッチを食べてようやく気が付いた。
 雨風を凌げるどころじゃない城のベッドに食事までついて、毎日無心で戦いに身を置ける。——思えば随分と贅沢な生活を送っているものだ。
 勝手に伸びる手が掴んだサンドイッチを口に頬張っていると、調理台に頬杖をついているレンからの視線に気が付いた。
「海賊って楽しい?」
 ゾロと目が合ったレンはそう言って、ゾロの方を向いたままサンドイッチを口に運ぶ。
「悪くはねぇ。だがまぁ——船長次第だろうな」
「ルフィはどんな船長?」
「一緒にいて飽きねえのは確かだ」
 そうなんだ。
 耳を上に向けやけに嬉しそうに笑いながらレンはそう言った。
 レンの笑った顔を見たのはこれが初めてだった。
「お前、海賊に興味あんのか」
「海賊にっていうか、この世界に興味があるの」
「世界ねぇ」
 こいつもロビンのような空白の歴史とやらに興味を持っているクチなのだろうか。——ゾロがそう思った矢先、レンはサンドイッチを頬張りながらもごもごと動く口を手元で隠しながらに口を開く。
「美味しいものをたくさん食べたい」
「食い気かよ」
 自然と笑みが漏れた。
 こうして笑ったのは、随分と久しぶりのような気がした。
「……お前の作る飯は悪くねぇ」
「ならよかった」
 二人分とは言えない程に積まれていた大皿のサンドイッチはあっという間になくなった。
 ワイングラスに注がれた水をどうにも飲み干す気にならず、調理台の上で揺らしながら口を開く。
「剣は誰に習った」
「ミホークの前にってこと?」
「そうだ」
 レンの体の傷は見える部分だけで判断しても随分と古いもののように見えた。ミホークに拾われる前から剣を奮っていたのだろうとゾロは予想していた。
「ミホークに剣を習う前はね、魔導士だったの」
「……なんだって?」
「魔法使い」
「お前魔法使いなのか」
「正確には魔法使いだった、だけど」
 グラスに口をつけてゆっくりとそれを傾けるレンは嘘を吐いているようには見えなかった。
 疑ったところで徳もない。
「どうして剣を選んだ」
「生きていくのに必要だと思ったから。魔法以外の力が欲しかったの」
「もう使えねぇのか、魔法」
「二度と使えないってことはないけど——今はわけあって使えない。魔法に興味あるの?」
「そんなもんがあるなら見てみてぇと思っただけだ。無理を言うつもりはねぇ」
 魔法なんて万能そうなものを棄てて剣を選ぶ真意が気になったが、それを言うつもりはなさそうに見えた。
 ゾロが初めてレンとこの島で出会った際、ミホークはレンについて、剣の腕は今のゾロよりも上だと評していた。引っ掻かれないように気をつけろとも。——そういえば、レンが腰の細剣を抜いている姿を一度も見たことがない。
 そう思ったら、唐突に湧いた興味を消し去ることはできなかった。
「ヒヒを全員ぶっ倒す」
 脈略もなくそう口にしたゾロの言葉に、レンは何も言わずに首を傾げた。レンの頬に色素の薄い髪がはらりと落ちるのを横目に、そのまま口を開いて浅く息を吸った。
「ぶっ倒したら——おれと勝負しろ」
 初めて正面から見たレンの瞳が宝石のような赤色だったことにようやく気が付いた。
 今夜はどうにも初めて知ることばかりだと思ったが、そもそもレンについて知っていることなど元より何もない。
 レンと剣を交えてみたいという欲求が、一層増したような気がした。
「どうして私と戦いたいと思うの」
「本当に引っ掻かれるかどうか、確かめてみたいと思っただけだ」
 薄く笑みを浮かべたレンの瞳が揺れたような気がした。
「おれはもう二度と敗けねぇと誓ったが、現状はこの ざま (・・) だ。おれはまだ弱い。——だが目の前でおれより強ェと言われた剣士がいるってのに戦いも挑まず避けて通るのは性に合わねぇ」
 偽って話すつもりはなかったが、ここまで本心を あけすけ (・・・・) に話すつもりもなかった。一度見つめてしまったレンの赤い瞳から今更視線を逸らすこともできず、逸らしたいとも思えないのが不思議な気分だった。
 調理場の灯りがレンの瞳の中できらきらと煌めいて、万華鏡の中にでも迷い込んだような錯覚を感じさせた。
 どのくらいの時間そうしていたのか。
 レンの瞼がゆっくりと降りて赤い瞳を隠し、次に開いた時にはレンの瞳はゾロを向いてはいなかった。
「ゾロはたしかに——そういう人だったね」
 水の残っているグラスの縁をレンの指先がなぞる。
「……お前おれを知ってんのか」
 レンとはこの島で初めて会った筈だ。
 手配書を見れば存在くらいは確認していることもあるだろうが、レンの口振りはそれではないような気がした。
「暫く前から知ってたよ」
「そうなのか」
「ミホークとゾロが 東の海 (イーストブルー) のレストランで戦っていたのを見たの」
「……ああ。お前あそこにいたのか」
 随分と昔のことのように思える。
 あの時は ミホーク (鷹の目) のことしか見えていなかったからレンがいたことには気が付かなかった。
「うん。あの時のことは今でもたまに思い出すよ」
「ンなもんさっさと忘れちまえ」
「忘れないよ」
 そう呟いたレンはゾロを見ないままだったが、その横顔は淡く微笑んでいるように見えた。
 レンの細い指先がワイングラスの表面を滑り、持ち手を握ってそのまま唇へと持ち上げる。グラスの中の水がレンの唇へと流れ、折れそうな白い喉元が動くのが見えた。
「忘れたくない」
 こつん、と調理台に置かれたグラスのプレートに指を添えたままそう口にしたレンの横顔は、 ミホーク (鷹の目) と戦ったあの日よりももっと昔のことを思い起こしているような気がした。
「——そうかよ」
 レンの胸に残るものが一体なんなのか。それを問いただせるわけもなく、ゾロはグラスに残った水を一気に飲み干し席を立った。
 美味かった。
 調理場を出る前に振り向いてそう言うと、レンはまたあの淡い笑みを浮かべてお粗末さまでしたと言った。
 やけに胸が熱い。
 体を巡る原因不明の熱を発散させるように、ゾロは城を出てからヒヒに向かって無心で剣を奮い続けた。