残香に狂う

 ゾロがレンの妙な癖に気付いたのは、快晴と雷雨、大雪とあられが不規則に降り注いでいたある日のことだった。
 補給のために寄った港でレンが雷雨の中を一人街へと降りていくのがトレーニングルームの窓から見えた。
 こんな空模様の中を出掛けて行くなんて誰も止めやしなかったのかと疑問には思ったが、レンの気配の消し方はロビンを上回る。ゾロにしてもたまたま眺めた窓の向こうにその姿を確認出来なければ気付くことはなかったかもしれない。
 暗い空を稲光が照らし、少し遅れて轟音が響き渡る。
 ゾロは僅かに舌を打ち、持ち上げていたダンベルを床へと降ろす。肩を軽く回しながら、窓から見えるレンの向かう先を横目に捉え、ゾロはトレーニングルームを後にした。

 大粒の雨がアスファルトを叩きつける音が耳に障る。
 別段雨に対して好きも嫌いもなかったが、探し物も見つけられずにただ雨に打たれる時間というのはこうも虚しいものなのかと、ゾロは苛立ったように何度目かの舌を打った。
 この道はさっきも通ったような気がするし、それでいて初めて通る道のような気もする。街というのはどうしてこう道を入り組ませたがるのか。大通り一本でやっていく気概を持ちやがれ。
 誰に聞かせるでもない文句を頭の中で繰り返していたが、このままいつまでもうろついていても仕方がないことはわかっていた。どうにも癪だが、そろそろ船に戻った方がいいかもしれない。
 そう思っていた矢先、響き渡る雨音をすり抜けて小さな声がゾロの背中を呼んだ。

「ゾロ?」

 振り向かずとも声を聞いただけで誰とはわかる。
 ゾロは浅い息を短く吐き捨てゆっくりと振り向いた。びたびたと雨音が五月蝿い煉瓦道の路地裏から、頭の天辺からブーツの先までずぶ濡れになったレンが顔を出した。
「……お前、こんなところにいたのか」
「探させた?」
「いや、俺が勝手に来ただけだ」
「そっか」
 言ったきりレンは近付いてこようとはしない。
 ゾロはどうしたもんかと後頭部を掻き乱したが、すぐにその足をレンのいる路地裏へと向けた。
 雷雲が空を覆っているせいで裏通りはいつも以上に薄暗い。
 レンは白いコートが汚れるのも構わず裏道の壁へと背をつけた。何も口にしないレンをただ見下ろして、ゾロは懐から出した手で自らの顎を撫でる。——思えば、こうして二人きりでいるのは随分と久しぶりな気がした。
「何してた」
「雨みてた」
「そんなもん、船からでも見えんだろ」
「ん……なんとなく」
「……雨、好きなのか」
「どうかな……」
 俯くレンの顔に張り付いているずぶ濡れの髪の先から雫が止めどなく落ちてはレンの白い頬を濡らしていく。頬を滑る雫は首筋を流れ落ち、大きく開いたレンの胸元へと更に流れて、豊満な胸のあわいへと吸い込まれていくのが——見えた。
 厄介なもんだ。
 無意識に浮かべた苦虫を噛み潰したような顔のままに、ゾロはレンの額にひたとくっついている髪を指の先でそっと払う。
「お前、雨ン時よく外出てるだろ」
「気付いてたんだ」
「いや、気付いたのはさっきだ」
「深い意味はないんだけどね」
 ゾロの大きな掌がレンの片方の頬をすっぽりと包み込む。硬いごつごつとしたゾロの親指の腹が目元を撫ぜると、レンはほんの僅かに目を細めた。
「雨の中にいるとね、ちょっとだけすっきりするんだ」
 レンの濡れた肌に指が吸い付いたように離すことができない。
 雨足が、強くなってきた。
「——今、何考えてる」
「……ひみつ」
「俺には言えないことか」
「誰にも言えないこと、かな」
 そうかよ。
 そうは言ったが、別に納得したわけじゃない。
 レン、と一度名を呼んで——ゾロはレンの小さな体ごと腕の中へと引き寄せた。
「……ゾロ」
「ンだよ」
「せっかく頭すっきりさせたのに」
「おれのこれと、お前のなんかよくわかんねえそれが関連してるってんなら、手っ取り早い方法がある」
「……一応聞くけど。どんな方法?」
「顔上げろ」
「……ッ」
 上げろと言っておきながら半ば無理矢理にレンの顎を持ち上げ、ゾロはその唇に噛みついた。
 レンは咄嗟に距離を取ろうとゾロの胸板を押したが、ゾロは不動のままレンの腰を引き寄せる。ずぶ濡れの互いの肌がひたりと重なり、体はすっかり冷えている筈なのに——レンの舌は随分と熱かった。
 その熱を求めるように、獣のような眼光を注いだまま瞳も閉じずにレンの吐息ごとゾロの舌が絡みつく。
 相変わらず雨音が五月蝿い。
 雨のせいで、こいつが泣いてんのかどうなのかもわかりゃしない。
 ゾロは内心の苛立ちを隠しもせずに一層眉間に皺を寄せ、一層レンの体を強く抱き締めた。
「テメェ一人で勝手に諦めやがって」
「ゾロ……だって……」
「いい加減、わかれ」
 ようやく離した唇が、しかしまだそこにある。
「おれの匂い、勝手に消してんじゃねえよ」
 その言葉を聞いた瞬間、レンの瞳が大きく開かれた。
「いちいち言葉にしなくてもわかれ」
「わかんないよ……だって、そんなの……いいの……?」
 馬鹿かお前は。
 言って、ゾロはレンの小さな頭ごと胸に抱えて耳元へと唇を寄せた。
「お前はおれのだろうが」
 雨足は弱まるどころがどんどん強くなって、声なんか届くはずもない。
 しかしゾロの静かな声は確かにレンの耳へと入り、その胸へとすとんと落ちていた。
「黙っておれのそばにいろ」
 レンの小さな、うん、という声がゾロの耳にようやく届いて、ゾロはレンを抱き締めたまま心底安心したように深く息を吐いた。