「ねー蓮二」
「なんだ」
私たち、終わりにしようか。——と、お前は言う。
脳内で導き出される結末は高確率でそう示していた。疑う余地などない。
そのはずなのに。
こちらに白い背中を見せつけながら寝転んでいるこの女は、いつもその確率の低い方を突いてくる。
「私たち、付き合おうか」
顳顬が引き攣るのを感じた。
年季の入った場末の安ホテルのヘッドボードに背を預けたまま、横目で転がっている彼女へと視線を投げてみても先程と何も変わりはしない。ただ白くて美しい背中と、染料で少し傷んだ髪がその肌に流れているのが見えるだけだった。
「——……理由を聞いても?」
「んー」
気の抜けた声を上げ、手のひらに載せたままの携帯を弄ることもせず、ただ何もない宙を眺めているのだと思う。
こういうとき、これの考えていることを察せた試しがない。
昔はあれこれと試行錯誤して思考を読み解こうとした時期もあったが、どれもこれも徒労に終わった。それを無駄だと思ったことはないが、これ程成果が出ないのも腹立たしい。
自然と溢れる吐息と共に体を捻り、ヘッドボードに置いておいた櫛を手に取った。
僅かに枕に顔を埋めるようにして身動いだ彼女の髪を一房手に取り、その毛先を櫛で解く。
色の抜けた髪に櫛を通していると、白い背中が少しずつ、皺になったシーツの上を滑りながら、こちらへと近付いてきた。
「なんか人生なんも上手くいかない。付き合った人には悉く浮気されるし。仕事も上手くいかないし。隣に越してきた人は騒音やばいし。近所のスーパー値上がりだし。もう蓮二がいないとペイできない」
「お前の抱える不運は俺がいたところで相殺できないと思うが」
仕事が上手くいかないことに関しては、建設的な意見という名の小言がないわけでもなかったが、今それを口にしても災いしか起きないだろう。
「そもそも、俺とだけは絶対に付き合わないのではなかったのか」
「そのつもりだったよ」
もう何年も昔に言われたその言葉は、今でも胸の奥に残り続けている。
傷付いているわけではない。
悲観しているわけでもない。
それを覆すことを諦めたわけでも、決してない。
「でも彼氏ができるたびに思う。蓮二ならこんなことしない。蓮二ならこんなこと言わない。蓮二ならきっとこうする。蓮二なら、蓮二なら、蓮二なら——ってさ」
「そんなことを考えながら他の男と付き合っていたのか。不毛だな」
「うるさいなぁ……そもそも蓮二がいつまでも私を好き放題させて放っておくからこういうことになる」
「俺が何らか忠告をしたとして、お前は俺の言うことには従わなかっただろう」
「それはそう」
「理不尽とはまさにお前のことを言う」
手の中の一房を解き終えたら、また次の一房を掬う。
先程まで乱れ絡んでいた彼女の細い髪が、丁寧に櫛を通すことで指通りの良い髪となり、乱れたシーツへと音もなく落ちていく。
存外、この時間が好きなのだと思う。
彼女は常に唐突だ。
彼氏と別れたと連絡を寄越してきては逢瀬を重ね、酒を飲み、愚痴を聴き、肌を合わせて熱を喰らう。
そして暫くすると、彼氏が出来たからと今度は勝手に連絡を断たれ、次にいつ連絡が来るのかは彼女のみぞ知る。——実際には、概ね二ヶ月、保って三ヶ月、稀に三ヶ月半。それ以上の確率はかなり低いので、そういう周期を持つ生き物だと認識している。
浮気をしないという点に於いては一般常識とは言え、そうすべきとされていることを実行できる意識や矜持については評価している。世の中にはそれすら出来ない人間が多すぎる。
彼女が選んできた男についてこれまで一度たりとも意見したことはないが、なぜああも見るからに相性の悪そうな男ばかりを捕まえてくるのか、全く以って理解に苦しむ。
「蓮二と一緒にいる時がいちばん自然な私でいられる」
「お前がいくら嘘で自分を塗り固めようとも、俺には意味がないからな」
「そう。本当に腹が立つ」
これは彼女と過ごしていると度々口にされる言葉だ。
「慣れないヒール履いてかわいくしても靴擦れが起きてるから脱げとか言って勝手にどっか行ってかわいい靴買ってくるし。奮発して買ったシャンプーすごくいい匂いで気に入ってたのに私の髪質には合ってないからこっちにしろとか言って無理矢理押し付けてきたりするし」
「どちらも事実だ」
補足をするとすれば、彼女の下ろしてきた新しいヒールは彼女の足のサイズに合っていなかった。踵から爪先までの長さは悪くなかったが、サイドがやや余り気味だった。そのために彼女の足のサイズとぴったり合い、且つ彼女好みの系統に合わせた新しい物を用意した。
結果、彼女はありえないだの信じられないだの散々文句を垂れ流した挙句、手渡した新しい靴を身に纏ってその後の買い物を満喫していた。
「贈ったシャンプー、使っているようだな」
「仕方なくね。勿体無いし。……ちゃんといい匂いもするし」
「明らかに指通りが良くなっている。お前の髪は何度も色を抜いているせいで油断ひとつですぐに毛先が傷んでしまう。今使用しているような、ダメージケア用のシャンプーを継続使用することを勧める」
彼女から返ってくる、ん、という短い返事が心地好い。
ゆっくりと櫛を通していたつもりだったが、あっという間に全体がさらさらになってしまった。
「ねぇ、蓮二ってさ」
なんだ、と言葉を返しながら再び体を捻り、ヘッドボードへと櫛を戻した。ついでに携帯を手に取り時間を確認したが、チェックアウトにはまだ余裕があった。
そしてそんなどうでもいい確認事項に気を取られている間に、左から右へと通り抜けていった彼女からの言葉に反応するのが、ほんの僅かに遅れてしまった。
「私のこと、愛してたりすんの?」
無言で彼女を見下ろすと、先程まではだらしなく横になっているだけだった体を丸くして、使い古された薄い掛け布団の端を額まで持ち上げて、それでもやはり、こちらには背を向けたままだった。
——こういうところは、全くいつまでも変わらない。
掛け布団から僅かに覗かせている彼女の頭頂部へと、やんわりと手のひらを載せた。
「愚問だな」
「愚問ですか」
「学生時代から今日に至るまで、お前の自己中心的で横暴且つ邪智暴虐な言動に付き合ってきた理由がわからないお前ではないと思うが」
「酷い言われようだなぁ」
「自覚がないわけでもあるまい」
「面と向かって言われるとなかなかに酷いね。……ていうか、そこまで言う?」
「すまないな、根が正直ゆえの発言だ」
「そうかなぁ」
掛け布団越しにもごもごと喋るのは聞き取り難いのでやめてもらえるとありがたいが、そんなことを言おうものならまた話が進まなくなる確率——。
「それで? 蓮二は私のこと、愛してる?」
「——言いたくない」
「出た。言いたくない」
「俺がそれを言ったら、お前は俺から離れていくだろう」
「わからないよ」
「その確率は極めて高い」
「確率ね。百パーセントなんだ、蓮二の計算では」
「……百パーセントではない」
「残りの数パーセントに賭けてみようとは思わないの?」
「ギャンブルは趣味ではない」
「私との恋愛はギャンブル?」
「似たようなものだろう。ただでさえ、お前に関するデータには変数が多すぎる」
これだけのデータを集めるのに、一体どれ程の苦労がかかっていると思っているんだ。
そう面と向かって言ってのけたところで、彼女の心には響かない。
彼女の心を振るわせるには、もっと重要な、たったひとつの何かが必要だと常々思っている。
「ねぇ蓮二」
「なんだ」
「自己中心的で横暴且つ邪智暴虐な私の言葉を信じる?」
初めて聞いた発言だった。
一体どんな顔をしてそんなことを言っているのか、非常に興味がある。
彼女を隠している布団の端を軽く指先で引っ掛けてみると、存外簡単に引き下ろすことができた。
特に抵抗を見せることもなく、彼女はただ少し——頬を朱く染めて。こちらに視線を投げることもなく、睨むこともなく、恥ずかしそうに——そう、端的に言えば、おそらく。
照れている。
なるほど。執着している女性が羞恥に顔を染めている様子を目にすると、こういう感情になるのかと。
ここにきて、人生初めてのデータを観測できるとは思っていなかった。
更に言えば、こんなに胸があたたかくなることも、そう多くない。
なんとはなしに、じんわりと朱く染まった彼女の耳朶から垂れ下がるピアスに触れた。ぴくりとその肩が僅かに震えたが、特に抗議の声は上がらなかった。
そのまま顎筋を指の背でなぞり、細い頸の頸動脈を過ぎ、美しい流線を描く肩を手のひらで包み込んでから、その下の体を隠してしまっている布団を剥ぎ取ってみた。
彼女はそこで初めて視線をこちらに寄越して、しかし何も言わなかった。
ただどうしていいのかわからない、そういう顔をしていた。
露わになった彼女の整ったくびれから臍の辺りへと、その滑らかな肌に吸い寄せられるかの如く勝手に手のひらが動く。
凝眸めた先で未だ不安そうにしている彼女の顳顬へと、そっと唇を押し当てた。
「これまでの人生において、お前の言葉を疑ったことなど一度たりともない。お前は確かに自己中心的で横暴且つ邪智暴虐ではあるが、虚偽の発言をしたことはない。こればかりは揺るぎない事実だ」
「そっか」
静かな室内に響くエアコンの駆動音がやたらと煩い。
今時床に据え置き型のエアコンが存在しているとは、この場所に初めて足を踏み入れて目にした時には随分と驚きもした。
——少し、体が冷えてきた。
「あのね、蓮二」
「ああ」
彼女の下腹部に添えていた手の甲に、彼女のちいさな手のひらが重なった。
「蓮二が好きだよ。蓮二だけが好きだった」
「知っている」
「でも蓮二から告白されてたら、私逃げてたと思う」
「それも知っている」
「だからって、こんないい大人になってまでずるずる付き合ってくれるとは思わなかった」
「そうか」
「だからもう、観念することにした」
「ほう、殊勝な心掛けだな」
重ねた手を緩く握った彼女が寝返りを打つのに合わせて、古びたマットレスが鈍く軋む。
暫くぶりにこちらを向いた彼女の刹那に揺れた豊かな双丘が視界にちらついたが、それよりも——枕に沈んだ彼女の顔が、表情が。あの夕暮れの校舎内で一度見た限りの、あどけなく幼い彼女を彷彿とさせるような。どこか儚げで、それでいて瞳の奥に熱を隠したような、そんな懐かしい面影を幻視したような気がした。
彼女のちいさな両の手のひらに片手を丸ごと包み込まれ、そして彼女は祈るように瞼を閉じてゆっくりとその唇を開いた。
「柳蓮二さん。貴方が好きです。私と、付き合ってください」
場末の安ホテル。
年季の入ったエアコンの駆動音。
ベッドのマットレスは、少し動いただけですぐ軋む。
頭上に灯る鈍い暖色のルームランプに照らされた彼女は、紛れもなくこの世の誰よりも美しかった。
「——ああ、そうしよう」
そう言葉を返した瞬間、まるで十代の少女のような笑顔を見せた彼女の額に唇を寄せた。
いつもならすぐに逸らされてしまう頬に手のひらを寄せても、逃げられることがない。
そんな単純な挙動ひとつがどうにも堪らなく胸に刺さり、逃げない瞼の上にも唇で触れた。
彼女は擽ったそうに少し笑って、それからすぐに何かに気づいたような顔付きになり——そしてどこか不満そうに唇を尖らせて言った。
「なんか杜撰じゃない? 返答が」
「杜撰に返したつもりはないが」
「……なんかもうちょっと、メロい感じで言って」
「愛している」
「急すぎる」
「我儘だな」
「……もう一回言って」
今夜は彼女の見たことのない表情ばかりを目の当たりにしている。
彼女の全てを知った気になっていたわけではないが、それでも知らない顔を見ると動揺するし、興奮もする。
艶やかな彼女の髪に指を通し、撫で下ろすようにしながらその細い頸筋に手のひらを充てた。
少し早い脈拍を肌で感じながら、彼女の揺れる瞳から目を逸らさずに告げた。
「お前を愛している。まだ制服を身に纏っていたお前に出会ったあの頃から、お前だけを想い続けてきた。お前がこれまで幾人の男と関係していたとしても俺の心は揺るがない。そしてこれからは、俺だけがお前を生涯愛し続ける。覚悟しておくといい。俺の愛は、お前が想定しているよりもずっと重い」
ほんの僅かに頸を握る手のひらに力を込めながら唇を重ねた。
震える彼女が笑いながら口にした、既にかなり重いよという言葉には、何も返さずに再びその唇を塞いだ。
軋むマットレスの音など聞こえないくらいに、頭の中では互いの熱くなった舌に絡まる水音ばかりが響いている。
体温の上昇を感じながら、彼女のちいさな体を上から見下ろすのが堪らないのも、今後は隠す必要はないのかもしれない。
そんなどうでもいいことを考えながら柔らかい彼女の胸に手を寄せたところだった。
「ちょっと……時間、延長取られちゃうよ」
「問題ない。今夜は宿泊にしてある」
手のひらで柔らかな幸福を掴みながらにそう返し、無防備な白い頸筋に吸い付いた。
「……あのさあ、私が今夜蓮二に屈服する確率って、何パーセントだったの?」
どこか呆れたような彼女の声色も、今ではまったく気にならない。そんな些事のひとつやふたつ、まるで問題にすらならないからだ。
「それに答えるつもりはないが、今夜お前が告げなくとも、俺の方から告げるつもりだった」
「ハメられた……」
「邪智暴虐に対抗するには、ギャンブルも必要だということだ」
ベットしたのは、これまでの人生で得た知識と経験、統計と手段、抱き続けた揺るぎない矜持と——そしてほんの一握り、砂塵に埋もれた煌めく強運。
手に入れたものは、傍若無人に咲き誇る一輪の美しい華。
この華だけは、生涯枯らさぬと誓おう。