ワンルームデートタイム

 気になる本があった。
 ふとしたきっかけで知ったタイトルだったが、それ以来どうにも頭の片隅に残り続けている。書店を巡ってみても、なぜだか常に在庫切れで未だ実物を見れていない。
 どうしても手に入れたいというわけではなかったはずが、手に入らないと思うと余計に気になってくる。近場の書店は行き尽くしてしまい、わざわざ数駅離れたこの書店まで足を運ぶ程度には、その本は脳裏に残り続けていた。
 残り続けていたからこそ、レジに並んでいる女性の持つその本が探していた本だとすぐにわかった。
 女性が会計を済ませている間に店員に声をかけたが、先程売れた一冊が最後とのことだった。
 意図せず浅く息を吐き出して店を出ると、いつの間にかに酷い雨が降っていた。風もなくただ真っ直ぐに地面を打ち付ける雨音に気が付かない程にあの本を気に掛けていただろうか。
 見上げた空は暗い雲に覆われているが、それほど長くは続かないような気がした。
 軒先で少し様子を伺うかと思っていた矢先、書店の古びた硝子扉の蝶番が、きぃと鈍い音を上げた。
「うわ、雨すご……最悪」
 書店から出てきた女性は外に出るなりそう呟いて、扉を挟んで向こう側へと一歩横にずれて立ち尽くしていた。
 同じように空を見上げて、それから小さく漏らした吐息がやけに耳によく届いた。
 一目見て、先程レジに並んでいた彼女だとすぐにわかった。
 手には購入した本が入っているでだろう紙袋だけ。手ぶらで買い物に来ているということは、家は近いのだろうか。
 女性の服装についてはまるで詳しくないが、どうにも彼女の装いは部屋着のように思える。もうすぐ日も暮れるというのに、あまりにもラフな格好で出歩くのはいかがなものか——ここまで考えてから、ようやく不毛なことを思考していることに気が付いた。
 雨は、相変わらず音を立てて降り続いている。
「君、この本が欲しかったの?」
 一瞬、話しかけられたことに気が付けなかった。
 まさか声をかけられるとは微塵も思っていなかったからだ。
「さっきお店の中でもこの本のこと見てたから」
 事実なので否定のしようもない。
「——はい。すみません、不躾に」
「気にしてないよ。これ、なかなか手に入らないよね。私も探すのに苦労した」
「そうですか」
 どうやら目当ての本は随分と人気作らしい。
 話題に上がるような書籍ではないと思っていたが、こうして電車まで使って探しているのだから説得力がない。
 くしゃ、と鳴った彼女の手の中の紙袋の音に意識を戻された。
 化粧気のない頬に人差し指を充てて何かを思案しているらしい彼女を真っ直ぐに見つめてしまう。
 なぜだろう。彼女の一挙手一投足がやけに目を惹く。
 欲しかった本を手にしているからだろうか。
 外出するには軽装すぎるその様相のせいだろうか。
 雨を含んだ風に靡く髪から覗く横顔が、鼻筋が、唇が——とても、綺麗で。美しいと——そう、思って。
 無意識に口を僅かに開いて短く息を呑んだ。
「読む?」
 何を問われているのか、瞬時に理解することができなかった。
 そしてすぐに、彼女の手の中にある本のことだと察した。
「いいんですか」
 よくも冷静に答えられたものだ思う。
「いいよ。でもこんな軒先じゃあ読めないよね……あ、うち近所だから、雨上がるまで読んでく?」
 いいんですか。
 喉まで出かかった言葉に驚いた。
 空に稲光が走らなければすぐにそう口にしていただろう。
 暗い空が眩しすぎるくらいに白く光って、少し遅れて轟音が鳴り響いた。
 すぐに止むだろうと思われた雨足が、一層強く地面を叩きつけている。
「あ、待って。きみ、高校生?」
「中学三年です」
「中三……? 最近の子は発育がいいんだねえ」
 目線よりだいぶ低い彼女の瞳が丸くなるのが薄暗がりの中でもよく見えた。
「あー……中学生家に連れ込むのって、犯罪かも……」
 このままここで別れたら、もう二度と会うことはないのかもしれない。
 別に構わない。
 構わないはずだ。
 わかってる。

 ——わかっている、はずなのに。
 
「あの、迷惑でないのなら」
 言葉にしたときには、彼女の手の中にある本のことなど頭から消えていた。
「え、来るの? あとで訴えたりしない?」
「しません」
「うーん……この本しばらく見つからないだろうし……まいっか。タクシー捕まえよ」
 はいと短く返して、肩に掛かったラケットバッグの持ち手を強く握った。
 理由はわからなかった。
 ただ胸が、鼓動が——先程の雷鳴よりも煩く頭の奥で鳴り続けている。

「散らかってて悪いけど。ソファーとテーブルだけは綺麗だから」
 書店からそう遠くない場所に彼女のマンションはあった。
 大通りから外れた閑静な住宅街に佇むオートロックマンションは、管理も行き届いているようで随分と綺麗に整えられていたが、どうやら彼女の部屋はそうではないようだ。
 やたらと広いワンルームの部屋には必要最低限の家電と家具、そして大量の本が視界の殆どを埋め尽くしている。
 壁沿いに並ぶ本棚から溢れた本たちは無秩序に床から天井へ向かって積み上げられ、高さの違うそれらが無数に床に並べられていた。
 彼女から宣言された通り、ソファーとその向かいにあるテーブルだけが唯一の綺麗なスペースとなっていた。
「本がお好きなんですね」
 立ったままラケットバッグをどうするかと悩んでいたが、彼女が手早くソファーの横の本塊をずらしてくれたので、ありがたくそこへ置かせてもらった。
「好きだよ。読んでも読んでも足りないよ。時間も、スペースも」
「少し整理すれば、まだまだ入りそうですが」
「整理すればね。紅茶でいいかな。ミネラルウォーターもあるけど、どっちがいい?」
 ジュースとかないんだ、ごめんねと笑う彼女に、
「いえ、ミネラルウォーターをいただきます」
 などという気の利かない言葉しか返せないことが、少し情けなくなった。
 キッチンからペットボトルの水の注がれる音が聞こえるにつれて、いつまでもこのまま立ち尽くしているわけにもいかず、ついには彼女の部屋のソファーへと腰を下ろした。
 沈むクッションが心地好く、ほんの僅かに緊張の糸が緩まったような気になれた。
「はいこれ、さっきの本ね。水は冷蔵庫に入ってるから、おかわり欲しくなったら勝手に開けて」
 私はそこで作業してるから。
 そう言って彼女は水の入ったグラスをテーブルへと置き、約束の本を紙袋ごと差し出した。
 礼を告げて受け取ると、彼女は小さく笑ってからワンルームの隅にあるデスクに座り、程なくしてからキーボードをかたかたと鳴らした。
 彼女の背中をどのくらい凝眸めていただろうか。
 締め切られた窓の向こうで、何度目かの雷鳴が聞こえたのを契機にようやく体が動いた。
 手の中の紙袋から取り出した一冊の本。
 ここ数日間求め続けた本が、確かにそこに存在している。
 何が気に掛かったのかは最早覚えていない。
 今はただ、彼女も欲した《・・・・・・》この本の中身に興味が湧いている。
 テーブルのグラスを左手で持ち上げ、そのまま冷えた水を喉へと流し込んだ。
 膝上に載せた本の表紙をゆっくりと指先で撫でて、そっとページを捲った。
 新しい紙の香りに心が落ち着いていくのがわかる。
 そうしてしばらくの時間、彼女の奏でるキーボードの音と、窓の外から漏れ聞こえる雨音に耳を澄ませながら、ただゆっくりと、本の中へと沈んでいった。

「——あれ? もうこんな時間。きみ、そろそろ帰らないと、お家の人が心配するよ」
 静寂が唐突に破られ、最初に胸に落ちてきた感情は、落胆だった。
 部屋の高い場所に掛けられている時計の短針は、いつの間にかに九と十の間を示している。
 それほどまでに集中していただろうか。
 ここに来る前に、寄るところがあると家に連絡を入れておいたので、そう慌てることもないが——。
「……はい。そろそろお暇します」
 ここで粘っても仕方がない。
 開いていた本を閉じ、少し迷ってからソファーの上へと置いた。
「本、読めた?」
「はい。半分程」
「早いね。続き、読みたくなったらいつでもおいで。私は外に出ることの方が少ないから、大抵は家にいると思うよ」
「買い物に出ることもあるのでは」
「ほとんど通販で済ませちゃうから。今日はね、あの書店、通販してないから。一ヶ月ぶりくらいかな、外出たの」
「……陽の光は浴びた方がいいですよ」
「そうなんだよねえ。タクシー呼ぶからちょっと待ってて」
「いえ、電車で帰ります」
「駄目。さすがに中学生をこの時間に歩いて返すわけにはいかない」
 ラケットバッグを担ぎ、玄関に向かおうとしたが止められた。
 どうやら電話でタクシーを呼ぶつもりらしい。
 ——気を遣わせてしまった。
 彼女が電話をしている間はバッグを担いだまま立ち尽くしていたが、ふとテーブルの上の空になったグラスが目に入り、そのまま流し台を借りてそれを洗った。
 部屋は本で溢れているが、水回りは随分と綺麗にしてある。
 というより、本が整頓されていないことを除けば、この部屋は秩序ある部屋と言ってもいいのかもしれない。
 服などはどうしているのだろうと視線を彷徨わせてみると、仕切りのような衝立の向こうにベッドの端が垣間見えた。一人暮らしにしては随分と大きい。
 広いワンルームを衝立で分けているのだろう。収納などもきっとそこに——いや、女性の寝所を勝手にあれこれと推測するものではない。
 あの軒先で彼女と出会ってから、どうにも思考がいつも通りでいられない。
 余計なことばかり、気にかかる。
「タクシー来たって」
 その言葉に呼ばれて、大人しく玄関の靴を履いた。
 彼女は相変わらずのラフな格好でエントランス前に来たタクシー運転手と二、三話をした。どうやら支払いを先に済ませてくれたらしい。
 そこまでさせてしまうわけにはと思ったが、ここで揉めても彼女とタクシー運転手の迷惑になる。
「ありがとうございました。——また、来ます」
「はい。気をつけて帰ってね」
 彼女が手を振ったのに釣られて、窓に向かって片手を上げた。
 非常に充実した時間だと、思った。
 次はいつ行けるだろう。
 気になっているのは、果たして本の続きか——それとも。
 大通りに入ったタクシーの窓から見える煌びやかなネオンの灯りが、まるで万華鏡のように視界をちかちかと取り囲んでいる。
 迷い込んでしまったのだろうか。
 などと——そんなことを考えてしまう程度には、あのワンルームに捕らわれてしまったのかもしれない。

 二度目の来訪には少し間が空いたが、忘れられてはいなかった。
 部屋は相変わらずの様相で、また少し本が増えたような気がした。
 いらっしゃいと彼女が言い、お邪魔しますと返した。
 連絡先どころか名前も知らないので、前回言われた通りアポイントメントも取らずにチャイムを押したが、当たり前のように彼女は部屋に引き篭もっていて、従来からの知人のような気軽さで玄関の扉を開けた。
 名前も知らないと前置きをしたが、今日エントランスを潜った際にはポストスペースにも足を運んでいた。
 壁一面に各部屋のポストがずらりと並ぶ中、彼女の部屋番号のポストに掲げられているプレートには、「獅童」という苗字が彫り込まれていた。
 下の名前が気になったが、直接尋ねるのは憚られる。——というのは建前で、ただ聞く勇気がないだけだ。
 先日と同じようにソファーに腰を降ろし、テーブルには彼女が置いてくれた水の入ったグラス。
 部屋に響くのは、彼女がキーボードを叩くかたかたという音。
 今日の天候は曇り。雨音はない。
 心地の良い空間だと思った。
 先日読みかけていた本は、以前来た時に置いていったままになっていた。
 彼女は、手に取らなかったのだろうか。
 そう思いながら前回読んだあたりまでページを開くと、丁度読みかけのところに栞が挟んであった。
 ——なぜ、わかったのだろう。
 デスクに向かう彼女の後ろ姿を見たが、答えは得られない。
 時折手を止めて体を伸ばす彼女を眺めつつ、視線を自分の手の中にある本へと向けた。おそらく今日中に読み終わってしまうだろう。
 正直なところ、ただただ名残惜しい。
 読むほどに未読ページが薄くなっていくことが、こんなにも悲しい感情を呼び起こすものだとは知らなかった。
 最後の数ページを一際ゆっくりと読み上げて、静かにその本を閉じた。小さく漏れた溜息は、読了後の満足感とは程遠い、寂寥感ばかりが胸を埋め尽くしている。
 ふと、部屋から音が減っていることに気が付いた。
 今日の天候は曇り。湿気た気配はあるが雨は降っていない。先程まで部屋の空気を震わせていた本のページを捲る細い音はもう聞こえない。
 そして、いつもは規則的に響いていたはずのキーボードの音も、いつの間にか消失していた。
 見ると、彼女がデスクに伏して眠っている。
 ソファーから腰を上げ、そっとデスクへと近寄ってみた。
 付け放しのモニターには、この散らかった部屋の主とは思えないような繊細な文章が綴られている。
 暫く目を離せずにいたが、唐突にばつが悪くなり、すぐにモニターから目を逸らした。そして逸らした先には、瞼を閉じた彼女の顔がある。
 規則的な呼吸。
 上下に揺れる肩。
 なんとなく——自然と手が伸びて。静かに寝息を立てている彼女の頬に掛かる髪を指先で払うと、ちいさな声が彼女の喉から漏れ溢れた。
 心臓の鼓動が煩い。
 無音の室内で、体の内側から心臓の音だけが鳴り響いているような錯覚に陥っている。
 ほんの僅かに身動いだ彼女の白い頬へと指の背で触れて、そっと撫ぜた。
 滑らかな肌は、抵抗もなくするりと抜けた。
「……ん、あれ……寝てた……」
 彼女の体が起き上がるのに合わせて、先程まで意識とは無関係に好き勝手していた手も指先も、自然を装って元の定位置へと戻っていった。
「デスクでの睡眠は、体を冷やします」
「あ、うん、ありがと。帰る?」
「はい。今日も、ありがとうございました」
 今夜はまだそう遅い時間でもない。
 彼女はタクシーを呼ぶかどうか迷っていたが、なんとか徒歩で帰れると押し通した。
 そうそう毎回タクシーを呼ばれるわけにはいかない。
「あの——また来てもいいですか」
 気軽に来られなくなってしまうから。
「ん? うん、いいよ」
 いつでもどうぞ。
 そう言って笑った彼女の笑顔は、まるで月の光のように静かに眩しくて。
 その届かぬ月が、無性に欲しくなった。

 
「いつでも来ていいって言ったけど、こんな遅い時間に中学生が出歩いちゃ駄目でしょう」
 この部屋に通うようになってから、初めて叱られたのだと思う。
 いつ訪れてもいらっしゃいとだけ言って扉を開け、水を注いだグラスをテーブルに置いてくれる。
 あとは各々好きに過ごした。
 会話も、少しした。
 彼女は意外にも、料理のことが嫌いではないらしい。
 自炊の様子がまったく窺えなかったので、包丁の握り方も知らないのかと思っていた。
 実際、キッチンに仕舞われている包丁は、使った形跡がないくらいに綺麗な物のように見えた。
 ではなぜ料理をしないのかと聞けば、毎度気付いた時には空腹が限界に達していて動くに動けず、出前を取るしか手段がないのだと言う。
 出前ばかりでは栄養バランスが偏るので体にも良くないと伝えてはみたが、彼女の生活習慣でそれを改善するのは非常に困難なこともわかっていた。
 もっとそばにいられれば。
 ——叱られている最中よぎったそんな考えを丸ごと飲み込むように、テーブルに置かれたグラスを右手で握り、冷えた水を喉に流した。
「すみません」
 自覚のあることに対して叱られたなら、謝るしかない。
 いつもならもう間もなく帰ろうという時間に、今夜はこの部屋を訪れた。
 このタイミングでしか時間が取れず、そしてもしかしたら咎められることもないのかもしれないと、そういう気持ちがなかったかと言えば嘘になる。
 叱られることが嬉しいと感じる日が来るとは思わなかった。
 しかしだとしても、ただの好奇心で彼女の失望を買いたかったわけではない。
 もう来ないでくれと言われてしまう前に、どうしても伝えておきたいことがある。
「暫くの間、東京を離れることになりました」
「そうなんだ」
「それでもし良ければ——本を一冊、貸していただけないでしょうか」
「いいよ。どれでも好きなの持ってって」
 言いながらいつも通りデスクへと向かう彼女の背中を見送ってから、部屋を埋め尽くす本を眺めた。
 あらゆる作者の本が乱雑に入り乱れる中、ただ一人の作者の本だけが一塊になっているのに、暫く前から気が付いていた。
 そこから一冊を選び取り、テニスバッグへと入れた。
「帰ります」
「はーい」
「お借りした本は、必ず返しに来ます」
「いつでもいいよ」
 その言葉が、今は酷く胸に刺さる。
 いつ、帰ってこられるだろう。
「タクシーで帰りなよ」
「いえ、俺の都合でこの時間になってしまったので」
「駄目。大人には責任があるの。呼ぶから待ってて」
 きみ、このまま帰したらタクシー乗らないでしょ。
 腰を降ろしたばかりの椅子を回転させてこちらを向いてそう告げる彼女は、間違いなく大人の顔をしていた。
 こういう時、どれだけ外で大人と見間違われようとも、実際はただの子供だという事実を突きつけられる。
「……すみません」
「そんな顔しない。皺が取れなくなるよ」
 好きで眉間に皺を寄せているわけではない。
 勝手に深まる眉間の溝は緩まないままに時間は過ぎ、来て欲しくないタクシーはやってくる。
「またね」
「はい。——行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 その言葉を口にしたのは初めてだった。
 自然に出た言葉ではない。
 それを言ったら、絶対にこう返してもらえるという確信に近い考えがあった。
 彼女からの「行ってらっしゃい」が、欲しかった。
 そうしたら、戻った時にも欲しい言葉を貰えるのではないかと、そう思った。
 打算でしかない。
 それでも今夜は、彼女からのたった一言が欲しくて会いに来た。
 タクシーから眺めるネオンにはもう慣れたのに、彼女の言葉や仕草には、まったく慣れも飽きもしない。

 もっと知りたい。
 もっと見ていたい。
 もっと——触れてみたい。
 
 グラスから水が勢い良く溢れ出るように止め処ない感情を持て余している。
 無意識に左肩を抑えて、一度深く呼吸をした。
 信号が赤から青に変わり、止まっていた景色が再び動き出す。
 次はいつ、会えるのだろう。

「おかえり」
「——ただいま戻りました」
 暫くぶりに彼女の部屋を訪れた時、欲しかった言葉を贈られる喜びを知った。
「少し雰囲気変わったね」
「どうでしょう。自分ではわかりかねます」
 そうは言ったが、心境の変化には心当たりしかなく、そのすべてを彼女に伝える勇気は今だに持ち合わせてはいない。
 子供である事実を変えられないのなら、せめて格好の悪い所は見せたくないと思うのは、つまらない男の見栄だろうか。
「今度、テニスの全国大会があるんです」
「へえ。全国大会に行けるなんて、すごいんだねえ」
「はい。必ず優勝します」
「きみのそういうところ、いいね」
 彼女は珍しくデスクではなく、かろうじて空いているカーペットに直に座って、テーブルへともたれ掛かりながら無邪気な笑顔で見上げて言った。
「きみがテニスの話をするのは、今日がはじめてだね」
「そうでしたか」
「そうだよ」
 貴方が何も聞かないので。
 そう返そうと思ったが——返せなかった。
 ここに通い始めてから少し経った頃、ソファーの近くにそれまでなかった洋書が何冊か置かれていたことがあった。
 いつもは左側に置いてくれているグラスがあの夜だけは右側に変わり、そして今目の前にあるグラスは左側にある。
 彼女と交わした会話はそう多くない。なのにどうしてか、彼女にはすべてが見透かされているような気がする。
 それがどうしようもなく嬉しく、ほんの僅かな悔しさもある。
 本当は隣に座って欲しいのに、それを口に出す度胸もない。
 恐れているのは、断られることだろうか。
 もしくは、ここに来られなくなるような気がするからか。
 ——口に出せないことを頭の中だけで悩んでいても、それこそ何の意味もない。
 止まらない自己嫌悪に蓋をするように、見慣れたグラスに注がれた水をすべて飲み干してから腰を上げた。
「優勝したら、また来ます」
「うん、がんばってね」
 これまで幾度となく、多くの人たちから贈られたはずの「がんばって」の言葉が、こんなに胸の奥底まで沈むように沁みたのは、初めてだった。

「優勝おめでとう」
「——まだ何も言っていませんが」
「前に言ってたでしょ、優勝したらまた来るって。だから、優勝したから来てくれたんだと思ったんだけど」
 違った?
 そう言ってはにかむように笑う彼女は、どことなしかいつもより楽しそうに見えた。
 気にしてくれていたのだろうか。
「優勝しました」
「有言実行だね。ほんとにすごいよ。おめでとう」
「ありがとうございます」
 玄関の扉を開けるなり告げられた祝いの言葉には驚いたが、以前伝えた言葉に微塵の疑いも持たれていなかったことを素直に嬉しく思った。
 彼女は優勝以外を想定していなかった。
 でなければ、会って早々あの言葉を口に出せるものではない。
 いつも通りにソファーに座り、いつも通りに彼女は水を入れてくれる。
 そうして本を読んでいる間、彼女はデスクでキーボードを奏でる。
 しかし、今日は違う。
 周りの本やグラスには手をつけないままに立ち上がり、デスクに向かった彼女のそばへとそっと近付いた。
「今日は貴方に、伝えたいことがあってきました」
 椅子を回してこちらを見上げる彼女は相変わらず感情がわからない微笑みを浮かべながら、そのちいさな口を開いた。
「優勝報告じゃなくて?」
「それは口実です」
「口実かぁ」
 どういう反応なのだろう。
 時折、というか殆ど。彼女がこの瞬間に何を考えているのかわからない。
 そもそも他人の考えていることなどわからないのが当たり前なのであって、これがせめてテニスであればラリーでわかることも少しくらいはあるかもしれないのに。
 そんな不毛なことを考えてしまうほどに、焦っているのだろうか。
 ——なんて、情けない。

 覚悟を決めろ。
 
 ゆっくりと息を吸い、そのまま静かに吐き出した。
 彼女はただじっと、いつもの顔で待っている。
 目を合わせると、その深い瞳の奥に吸い込まれるような気がした。
「俺は今まで、両親の言い付けを破ったことはありません。あの日、貴方と出会った日に初めて破りました」
「へぇ、どんなこと?」
「知らない人について行ってはいけない」
「ああ……それはそう」
「一目惚れでした」
 彼女の瞳が僅かに大きくなったのがわかる。
 その唇が何かを紡ぐ前に、これだけは言わなければならない。
 いつもは穏やかで艶やかな瞳が揺れている間に。

「好きです。俺と、結婚してください」

 締め切られた室内に、ふたり分の呼吸の音すらも聞こえなくなった。
 無意識に息を止めた理由が、彼女も同じならいいのに。
「はい……?」
「貴方が好きです」
 よく知りもしない中学生にこんなことを言われてもまっすぐに目を逸らさない彼女だから、好きになったのだと思う。
「結婚って……きみまだ中学生でしょ?」
「はい。なので、結婚できる年齢になるまでは、結婚を前提としたお付き合いをしていただきたい」
「……一般的に、そっちを先に言わない?」
「正直な気持ちを伝えたつもりです」
 言われてみればそうだと思ったが、今更順番などどうでもいい。
 もう後には引けない。
「獅童蓮さん」
 はじめてだった。
 彼女の名前に喉を震わせたのは。
「名前、知ってたの?」
「ポストの表札で苗字を見ました。あとは、書店で貴方の著作を。この部屋にもある。……名前の方は、今の今まで確信が持てませんでしたが」
 彼女が眠っている間に盗み見たモニターに羅列された文字列から判断したことは黙っておいた。
「へえ。よく気が付いたね。本、読んでくれたの?」
「以前に二冊ほど。それから——先日東京を離れた際に一冊、お借りしました」
「きみの趣味じゃなかったでしょ」
「非常に新鮮でした」
「そう」
 素っ気なく返事をして視線を逸らした彼女の目元が少し朱らんでいるのがわかって——まるで蜘蛛の糸でも垂らされたような気分になる。
「きみに好きになってもらえた理由が、わからないんだけど」
 先程のような真っ直ぐの視線ではない、揺れた瞳。
 照れているのだろうか。
 これまで見たことのない彼女の表情や仕草のひとつひとつに全身の感覚が反応して、痺れるような甘さが襲ってくる。
「一概には言えませんが、仕事に一途なところに惹かれます。それから貴方は、口には出しませんが、あらゆる物事の細かいところをよく見ている。大雑把そうに見せておいて、その実かなり几帳面だ」
「この部屋を見てよくそんなことが言えるね」
「確かに本の置き方には些か物申したいところはありますが、こんなに積み上げられた本のどこにも埃は溜まっていない。水回りも綺麗にしている。服や物が散らかっているところなど目にしたことはないし、この本の置き場所は、今の貴方にとってのベストな位置なのでしょう」
「服とかは——外に出ることがあまりないから……」
「その割に、いつも清潔にされてますね」
 彼女からは、いつでも石鹸の匂いがする。
「そんなこと……わからないじゃない」
「俺にはわかります」
「その自信はなに……? というか、他にも性格とか……知らないこと、たくさんあるでしょ」
「知らないことなら、ありすぎるほどにある。だから俺は、貴方のことをもっと知りたいと思っています。それこそ、貴方の特別にならないと知り得ないことまで、すべてを」
 何かを言おうと口を開いた彼女の喉は震えることはなく、視線を彷徨わせながら椅子を引こうとするのがすぐにわかった。
「蓮さん」
 距離が離れてしまう前に片足で彼女の椅子の脚を踏み付け、背凭れに腕を伸ばして引き戻した。
「——ッきみ……!」
「国光です」
 先程よりも近くなった。
 彼女の顔をこうして上から見下ろすのは初めてのことで、少し呼吸が速くなるのを感じざるを得ない。
 ——落ち着け。
 誰に言うでもなく心の中で何度も繰り返し唱え、時が止まったように不安そうな顔で見上げている彼女の頬へと、そっと指先から触れた。
「俺の名前は、手塚国光」
 白くてあたたかい、肌触りの良い頬を手のひらいっぱいに包み込み、空いている片方の手を椅子の肘掛けて固まっている彼女の手の甲へとそっと重ねた。
「てづ——」
「国光」
 彼女の朱く染まった目元を親指の腹で撫ぜながらそう告げた。
「呼んでいただけませんか」
 肘掛けの上の彼女の手のひらを掬い上げるようにしてやんわりと握ると、握り返しては貰えなかったものの、払い除けられるようなこともされなかった。
 そうして彼女は遂に顔を伏せて、ちいさく喉を鳴らした。
「……国光」
「嬉しいです」
 心の底からの歓喜なら先日の全国大会で得られたと思っていたが、それとは全く違う感情が胸の奥から濁流のように溢れてきて、この身ひとつで押し留められるか、いよいよ自信がなくなってきた。
「名前も知らなかった人に告白するって、あんまりないよ」
「俺は知っていました。それに、名前など単なる呼称に過ぎません。好意が向かない理由にはならない」
「今の今、その呼称に固執していたのは誰?」
「些細なことです」
「きみ、案外太々しいね……」
 意識しないままに、彼女の繊細な手指を豆だらけのごつごつした五本指で絡めて取っていた。
 俯き気味な彼女の頬から顎へと指を滑らせ、軽く持ち上げるようにしてみると、思いの外素直に顔を上げてくれた。
 再び合った視線は、先程よりも少し、熱い。
「俺はいずれ、プロを目指して海外に行くつもりです」
「海外?」
「テニスをするために」
「すごいね。海外にはきっと、可愛い子や綺麗な人がいっぱいいるよ」
「テニスをするのには不要です」
「じゃあ私も不要では?」
「貴方以外は不要、という意味です」
「私はテニスのことなんか何もわからないし、きみのサポートなんかできないよ」
「貴方に望んでいることはそんなことではありません。俺の帰る家に、貴方がいてほしい」
「……それ、プロポーズ」
「プロポーズは先程したつもりですが」
 そうだった、と何故か苦虫を噛み潰したような顔をしているその表情すらも愛おしい。
「引かないなあ……」
「ここで引くくらいなら、想いを告げてはいません」
「きみは若すぎるよ……この先まだまだ、それこそたくさんの出会いがあるんだよ?」
「年齢に関係なく、出会いは訪れます。貴方に出会ったのがどの年齢だろうと、俺は貴方に惹かれていたと思います」
 彼女の苦悶に歪む表情すらも新鮮で、益々この手を離す気がなくなってくる。
 細い指の関節をそろりと撫ぜると僅かに身を震わせているのがあまりにも扇状的で——。
「——いずれにせよ、すぐに結婚することはできない。それなら試用期間でもいいので、俺を貴方の恋人にしてもらえませんか」
「……私を犯罪者にするつもり?」
「俺が十六を迎えるまでは貴方に手は出さないよう努めますので、問題はないでしょう。そもそもそれを言うなら、中学生を自宅に連れ込んだ時点で問題です」
「きみねえ……」
「ひとつ、いいですか」
 なに、という彼女の返答よりも先に、薄く開いて艶めいている彼女の唇の輪郭をなぞるように、親指の腹で触れた。
「ここに触れてもいいですか」
「……まだ返事をしてないよ」
「貴方は言葉を文字に起こすことを得意としている割に、それを口に出すことには随分と慎重なようだ。承認はしないが、拒否もしていない」
 彼女からの無言は否定や拒否ではない。
 短い時間で学んだことだ。
「俺を受け入れられないようであれば、行動を以って拒絶してください」
「待……っ」
 片手は彼女の手指に絡めたまま、唇に触れた手のひらで彼女の顎を軽く掴む。相変わらず大きな瞳を震わせながら、それでも真っ直ぐに凝眸めてくる彼女の瞳からは目を離さずに、ゆっくりと彼女のちいさな唇へと唇を重ねた。

 やわらかくて、あたたかい。

 ほんの刹那に触れ合った瞬間、すべての時が止まったような気がした。
 お互い瞼は閉じないままだった。
 一瞬だけ触れて離れた唇に吸い寄せられるように、どちらからともなく再び触れた。
 肘掛けの上で繋いだ手の感触を確かめるようにきつく握り、彼女の細く折れそうな首筋に手のひらを添えて引き寄せた。
 僅かに震えている彼女の上唇を軽く吸って、ようやく彼女を解放した。
「……手塚くん」
「国光だ」
「こだわるね……」
「恋人には、名前で呼んでもらいたいものだろう」
「きみには敵わないな……敬語もやめたの?」
「嫌なら戻すが」
 我ながら随分な物言いをしている自覚くらいはある。
「いいよ、そのままで。……でも私、忘れちゃうかもよ。きみがテニスに夢中になってる間に、きみのこと」
「すぐにプロになれるわけではないし、これから合宿もあるのでまた暫く会えなくなる。俺がいない間に俺のことを忘れても構わない。もし忘れたとしても、何度でも俺が思い出させる」
「折れないなあ」
「この程度で折れていてはテニスはできない。——それに」
 そこでようやく、彼女を拘束し続けていることに気がついて、名残惜しさを断ち切るように彼女の肌から手を離した。彼女の艶めいた唇を視界から遠ざけるようにして背を向けると、なんだか酷く喉が渇いて。
 今夜は一度も口をつけていなかった水を立ったまま喉に流し込んだ。微温まった水は、余計に体の熱を増長させただけのような気がしてどうにも落ち着かず、とても正常な判断ができそうにない。
「それに、どうせ引き篭もるなら、場所がどこだろうと関係ないとは思わないか」
「……ん?」
「蓮なら、この部屋が海外に移っても執筆は可能だろう」
「え?」
「今日はこれで失礼する」
「え、待って待って」
 心臓が煩い。
 今更ながらにここ数分の出来事が濁流のように脳内で蘇って、頭がおかしくなりそうだ。
「俺の連絡先だ。蓮の連絡先も教えてほしい」
「え、あ、はい」
 それでも連絡先を聞けるくらいの理性があった、というよりは、執念のようなものかもしれない。
「帰ったら、連絡する」
 名残惜しさを断ち切るつもりでそう言い放ったはずなのに、振り向いた先の彼女がちいさく頷いた際に零れ落ちた髪の隙間から覗く頬がほのかに朱らんでいるのが見えて——気がついたら腕が勝手に彼女の腰を引き寄せていた。
 腕の中の彼女は想像していたよりもちいさく、これ以上力を込めたら粉々に砕け散ってしまうのではないのかとさえ思った。それでも再び触れた唇はやけに熱をもっていて、頭の中までその熱に浸食されていくような気がした。
 抵抗されるかと思い咄嗟に握った彼女の手指から、徐々に力が抜けていくのがわかって嬉しかった。
 少し汗ばんだ指を絡めて強く握ると、やたら控えめにやんわりと握り返されて、薄く開いた彼女の唇に舌を這わせたのは衝動だった。
 ちいさな口の中で蹲っている彼女の舌を拾い上げるようにしてみると、ざらざらとした表面を擦り上げるようにして受け入れてくれた。

 ——ああ、止まらない。

 ずり落ちてくる眼鏡のことも、口の端から零れ落ちる唾液すらも気にしている余裕もないくらい、硬い体を必死に弓形にしならせて耐えている彼女の姿を愛おしく思う。
 息も絶え絶えに名前を呼ばれなければ、このまま夜が明けるまでそうしていたかもしれない。
「……体が硬いな。柔軟をした方がいい」
 彼女の顎をつたう唾液に舌先で触れてから吸い上げた。
 そんなはずはないとわかっているはずのに、彼女の唾液がこんなにも甘く感じるのは、ついに頭がいかれてしまったんだろうか。
「こんなに強引な子だなんて知らなかった……力強すぎるし……私の体が硬いのは昔からなの、もうどうにもならないの。私がしんどくない体制でしてくれたら解決する」
「甘やかすだけではお前のためにならない」
「お互いのために、じゃなくて?」
「否定はしない」
 不服そうな彼女の両頬を包み込み、その尖った唇にそっと吸い付いた。鳴らした音が耳の中で反響している間に、なんとか口を開いて言葉を吐いた。
「おやすみ、蓮」
 潤んだ彼女の瞳を見ていると、どうにも歯止めが効かなくなる。
 困ったように見上げてくる彼女の視界を覆うようにしてその額に唇を押し付けて、今度こそ玄関の扉を開いて外に出た。
 空には雲ひとつない夜空が広がっていて、頭上には眩むような白い月が煌めいている。
 ゆっくり歩いて帰るにはいい夜だ。
 あの唇に触れた時点で、彼女がいつまでも気にしていた倫理というものに触れてしまったわけだが——それは口にしないでおいた。
 彼女も当然気付いているのだと思う。気付いていて尚、受け入れてくれた。
 ——あと約一年と少し、耐えられるんだろうか。
 熱くなった身体が少しでも冷めればいいと、夜の冷たい空気を深く吸い込んだ。